11月14日(金) ベティー・ユーバー女史

 ベティー・ユーバー(Betty Uber)女史とは,バドミントンの女子国別世界選手権の優勝杯(図1)を国際バドミントン連盟に(IBF)に寄贈した女性のことである。そして,その優勝杯自体の名称ともなっている往年の名選手のことである。
 ベティーは1930年代にかけての英国において,あのジョージ・トーマス卿と並び称せられたバドミントンプレーヤーである。
 ベティーはこのユーバーカップを1950年にIBFに寄贈している。しかしながら,財政的な問題で,第1回大会が開催されたのは1956−57年にかけてのことであった。ちなみに第1回大会が開催されたのは英国のリザム・サント・アンズ(Lytham St. Annes)というところであった。またまたちなみに,日本はこのカップを5回も獲得している。


図1 Uber Cup


 彼女は元々テニスプレーヤーであった。ウインブルドン選手権のジュニアの部でも優勝している。しかしながら,彼女が住んでいた地域にはテニスができる施設が少なかったということで,バドミントンに転向した。彼女がバドミントンを始めたのは1924年で,サリー州のサットンバドミントンクラブというところであった。
 最初はローカルな試合で腕を磨いていたが,1925年の全英選手権男子ダブルスのチャンピオンで,さらに夫でもある,H. S. Uber氏のコーチのおかげでめきめきと頭角を現していった。そして,1930年の全英選手権大会,夫と組んだミックスダブルスで初優勝し,その後,3連覇,さらに続けてヒュージ氏と組んで4連覇,計7連覇,その後も1938年にホワイト氏と組んで優勝し計8回の栄冠に輝いている。このミックスダブルス優勝8回の記録は未だ破られていない,金字塔である。また,シングルスでも1935年に優勝。ダブルスでも1931,1937,1938年に3回優勝をしている。(図2参照)

図2 往年のベティー・ユーバー


 このベティー・ユーバー女史であるが,1949年には,「That Badminton Racket」という書物(図3)を執筆している。この本では,1870年〜1949年のバドミントンの歴史や最新のバドミントンの技術および戦術といった内容を扱っている。特にバドミントンの歴史については,日本でもその内容がよく引用されている。
 ただし,この書籍の歴史に関わる著述は,特に,古い年代のものについては,Badminton Gazette誌の記述やその他の文献の引用(盗用)がほとんどである。したがって,色々な文章をつぎはぎしているので,脈絡的におかしなところが多々ある。したがって,この書籍の内容を引用する場合には,その辺の所を考慮する必要がある。

図3 That Badminton Racket タイトルページ


 ベティー・ユーバー女史が没したのは,今からちょうど20年前,1983年4月30日のことであった(あっ,これは私の妻と息子の誕生日と一緒だ)。

 ということで,今日は終わりにします。それではまた,


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11月7日(金) ジョージ・トーマス卿

 ジョージ・トーマス卿とは,国際バドミントン連盟(IBF)の初代会長のことである(図1)。そして,選手として,バドミントンガゼットの編集者として,協会役員として,準男爵として,バドミントンの発展に貢献した人である。あのバドミントンの男子国別世界選手権の優勝カップ(Thomas Cup 図2)にも,その発案とバドミントンへの貢献を称えて,彼の名前が冠せられている。
 

図1 ジョージ・トーマス卿 31歳頃 図2 Thomas Cup

 彼のフルネームは,Sir George Alan Thomasで,1918年に父が亡くなった後は,第7代ヤプトン準男爵(seventh Baronet of Yapton: 男爵より下位でナイトより上位)の爵位を受け継いでいる。ちなみに卿(sir)という言葉は,英国では,準男爵とナイトを呼ぶときに敬意を表して名前に冠する。
 さて,彼が生まれたのは1881年6月14日,トルコのイスタンブール(当時はコンスタンチノープルと呼ばれていた)の近くにあるテラピアという町であった。

 彼がバドミントンをはじめたのは1899年の秋のことで,英国ハンプシャー州ポーツマスのサウスシーにあったユナイテッドバドミントンクラブに所属した。一方,彼の全英選手権初デビューは1901年の第3回大会であったが,そのときは出場選手が少なかったために補助的に参加をしベスト4に入った。その後,彼は瞬く間に腕を上げ,1903年にはミックスダブルスで初優勝を遂げている。ミックスダブルスでは1906,1907,1911,1914,1920,1921,1922年と計8回の優勝を果たしている。また,男子ダブルスでも,1906年,を皮切りに,1908,1911,1912,1913,1914,1921,1924,1928年と9回優勝している。さらに,男子シングルスでも1920年〜1923年の間に4連覇している。1923年の優勝は彼が41歳の時でこれは今でも最年長記録となっている。

 彼は,選手として活躍する一方,1907年に創刊されたバドミントン協会の機関誌であるバドミントンガゼット誌(図3)の編集者として,1907〜1915年の間その編集に携わった。また,協会役員として1930〜1950年の間,イングランドバドミントン協会の副会長を,1950〜1952年の間,同じくイングランド協会の会長を務めている。さらに,IBFの設立にも奔走し,その初代会長として1934年7月5日の設立日から21年間にわたって,数多くの会議等への出席を始め,IBFの発展に貢献した。1923年には「The Art of Badminton」という技術書(図4)も著している。また,その他多くの著作もある。

図3
バドミントンガゼット誌
創刊号 1907年11月号
図4
The Art of Badminton
タイトルページ
1923年発行


 彼は,バドミントンのほかにも多くのスポーツを愛した。テニスもその中の1つで,イングランド代表として国際大会にも出場したそうだ。ウインブルドンで行われた全英選手権では1911年にはシングルスでベスト8に入っている。また,1907年,1912年にはダブルスでベスト4に入っている。そのほかにも,ホッケーや卓球でも優れた腕前を見せたそうだ。また,第1次世界大戦にも従軍し,メソポタミア砂漠を徒歩で358km歩き抜いたそうだ。

 彼が没したのは,1972年7月23日のことで,享年91歳であった。

 彼の存在無くして,現在のバドミントンの発展はなかったであろう。今,名古屋で全日本総合バドミントン選手権大会が開催されているが,この大会も,もし彼が生まれてなかったら開催されてないかもしれない。

 最近,このページ,バドミントンネタばかりになってきたが。なんでだろー。まっいいか。

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10月31日(金) サウスシーバドミントンクラブ

 今日,1935年(約70年前)に英国で発行されたバドミントンガゼット誌(Badminton Gazette)の3月号を読んでいたらサウスシーバドミントンクラブ(Southsea Badminton Club)のことを紹介している記事を見つけた。

 サウスシーバドミントンクラブというのは英国ハンプシャー州ポーツマスのサウスシーという町にあったバドミントンクラブのことである。とても古いクラブで1889年に設立されている。さらに,このクラブはバドミントンのルールの統一にも大きく関わっていることから私にとっては気になるクラブなのである。
 詳しいことは本サイトのバドミントンの初期の歴史を読んでいただきたいが,以下の緑色の部分にその概要を示しておく。

 
 
世界で初めてバドミントン競技に関わる協会が設立された。1893年、英国での出来事だ。協会の名称は「The Badminton Association 」であった。実に単純明快な名称である。他に協会がないわけだから単純は当然である。しかし、その設立理由は面白い。当時の協会の機関誌の記事をかいつまんでみると次のとおりである。その頃の英国にはいくつかのバドミントンクラブがあった。そして、それぞれのクラブが独自のルールを持っていた。いわゆるローカルルールというやつである。クラブの数が増えるにしたがって各クラブは対抗戦を意識し始めた。しかし困った。各クラブのルールが違うのである。対抗戦毎にルールをすりあわせるのは大変なことである。だからといって、一方のルールにあわせれば一方が極端に不利になる。これではつまらない。何とかしたい。それじゃあ、協会をつくってルールを統一しよう、ということでこの協会がつくられたわけである。単純明快な話である。1893年8 月、サウスシークラブのドルビー大佐という人が設立の提案を書状にしたため、英国国内の知りうるすべてのバドミントンクラブに送った。同年9 月12日、呼びかけに応じた14のクラブの代表がハンプシャー州のサウスシーに集まった。そして、いくつかの約束事を取り交わし、めでたく発会したという次第である。初代の会長には発起人のドルビー大佐が就任した。
 
 
ちなみに,このポーツマスとは,あの太平洋戦争終結時のポーツマス条約で有名な軍港町である。私も行ったことがあるが,とてもきれいな町である。ただし,ここは海軍の重要な基地となっており軍隊のにおいがする町である。あのサッカーの川口選手が所属していたイギリス1部リーグのポーツマスもここにある。
 ポーツマスの位置は→ここ サウスシーの位置は→ここ

 その昔からこのポーツマスという地は重要な軍港であったということで,ここを拠点に軍人達が,世界各地の大英帝国領地を行き来していたようである。したがって,19世紀後期にかけて,英国の軍人達は英国の伝統的あそびであるバトルドーアンドシャトルコックをインドに持ち込んだ。そして,バドミントンというゲームに進化させた。そこで,その軍人達はこの地に再びインドから出来立てほやほやのバドミントンを持ち込み,英国全土に広めたのである。したがって,このサウスシークラブも軍人が中心となって設立されている。また,このポーツマスでは,サウスシークラブが設立される1年前,すなわち1888年にはユナイテッドサービスバドミントンクラブ(United Services Badminton Club)という軍人のバドミントンクラブも設立されている。ちなみに,この場合のServicesとは,陸軍と海軍のことを指す。
 下に,1891年の,サウスシークラブ第1チームの写真を示す。着ている服はユニフォームで,このような服装で試合をしていたそうである。後列右から2人目がドルビー大佐(Major Dolby)である。彼は上述したとおりに,1893年に設立された「The Badminton Association 」の初代会長でもある。
 しかし,選手が持っているラケット,どこかで見たような,と思ったら,私が持っているやつと全く同じようならラケットである。念のためにそのラケットも以下に示しておきます。ちなみに,私のラケットは1909年頃英国で作られたと思われる。私が持っているバドミントンアンティークについてはここを参照のこと。 








 ということで,今日で10月も終わりです。今年も残すところ2ヶ月です。最近は朝夕にはめっきり冷え込んできました。皆さん風邪など召されませぬように。
 それではさようなら。

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10月24日(金) これは便利です(裏技かも)