9月15日(水) 焼岳

 東海女子大学の夏休みも9月15日(水)すなわち本日で終わりです。明日からは補講・集中講義が始まります。
 で,夏休み最後の思い出作りということで行ってきました。夏山山行にです。ということで,例によって山情報です。

 今回の目的地は北アルプス南部に位置する焼岳でした。焼岳はアルプスの香炉とも呼ばれている活火山で標高は 2455mです。もちろん100名山の中の1座です。標高はそれほど高くないものの独特の威容で槍穂高連峰と肩を並べながら存在感を示しています。

 さて,今回の焼岳山行は2度目です。焼岳には3つの登山ルートがありますが,前回は岐阜県側からのルートである中尾温泉登山道をピストンしました。そこで,今回は残りの2つのルートを確認してみようということで上高地登山道で登り,中の湯登山道で下山してみました。というのは,女房と子供たちがどこかいい山に登りたいといってきかないのですが,やはり自分の足で下見をしてからではないと,危なくて幼児をアルプスには連れてくることはできませんので,登山道情報を仕入れるために行ってきました。


ルートマップです。
クリックすると拡大します。

 9月14日の朝6:00に自家用車で平湯温泉バスターミナル村営あかんだな駐車場に到着しました。そこで準備を整え徒歩10分のバスターミナルへ向かいました。ちなみにここの駐車料金は1日500円です。
 6:30始発の上高地行きのバスに乗り込みました。そして,所要約30分で上高地帝国ホテル前に到着し,そこから焼岳登山口まで徒歩約20分,当日はあいにくの悪天候で横殴りの雨が降っていましたので,人影はほとんどなく,もちろん焼岳を目指す人は1人もいませんでした。


焼岳登山口

 カラマツやシラカバの間をとおってたんたんとした道を30分も登っていくと沢に出会います。そこを横切るのですが,その日は雨のために増水しており渡るのに苦労をしました。しかし,なんとか山靴の中を濡らすことなくジャンプ一番渡ることができました。そこからまたたんたんとした道が続くのですが,しばらくいくと崩壊しかけたやせた道に出会います。谷側は大きく崩壊しており断崖絶壁になっています。ロープがかけられているのでそれを掴みながら慎重に通り抜けます。その後,しばらく進むと断崖絶壁に鉄の橋がかけられたところを通り,そして,鉄梯子を登り,鎖場を抜け,さらにちょっとした鉄梯子を登ると笹原に出ます。ここは巻き道になっているようです。そして,ここからしばらく進むと最後のはしごが見えてきます。28段あります。しっかりとはしごにつかまって3点確保で登ります。


最後のはしご場

 最後のはしご場を登り終えると焼岳の頂上がぐっと迫ってきます。当日はあいにくの天候で視界が利きませんでしたが,晴れていれば絶景だったでしょう。


焼岳山頂

 そして程なく焼岳小屋へ。小屋の直前には小屋マデ121歩というおもしろいペンキ印がありました。



 そして,9:20に焼岳小屋到着,登山口からちょうど2時間の道のりでした。カッパを着ていましたが,靴もあわせて中は汗と雨でじゅじゅく状態になっていたので,小屋の中に入れてもらいすべて着替えました。ついでに腹ごしらえもし,生き返りました。ということで30分間の大休憩の後,9:50に小屋を後にしました。


うえから見た焼岳小屋

 途中,焼岳展望台を経由しましたが,あいにくの天候で視界は得られませんでした。

 

 そして,頂上を目指す最後の登り,やはり,焼岳,山容が他の山とはまったく違い,硫黄の匂いが立ち込め,所々から蒸気が噴出していました。


最後の登り

 頂上には11:05に到着しました。登山口からの所要時間は3時間45分ということになります。山頂には雨は降っていませんでした。しかし,ひどい強風で下の写真のとおりまったく視界が利きませんでした。したがって,そそくさとセルフタイマーで写真をとり,下山を開始しました。
 しかし,今回の登山では焼岳に登る人に出会いませんでした。百名山なのでひとでが多いときには頂上が人であふれ返り居場所もないくらいだそうですが。でも,まったく人に出会わないというのもさびしいもので,ここで何かあったらすぐに遭難になるなと思ったりもしました。

 
山頂にて

 下山は中の湯登山道を利用しました。視界が利かないのでただひたすら下っていきました。で,1時間ほど下っていったところで登山道が沢のようになっていました。ところによっては膝まで水位があり,登山靴の中はもう水が入ってきてびしゃびしゃの状態でした。で,さらに下っていくと登山道と沢が見分けられない状態になり,間違って本当の沢に迷い込み道を失ってしまいました。で,どうしようもないのでそのままどんどん進んでいきましたら,断崖絶壁に到達し,その先は滝になっていました。インディー・ジョーンズの映画にでも出てきそうなシーンでした。思わず肝を冷やして引き返したことは言うまでもありません。しかしその後道がわからなくなって右往左往彷徨うはめになりました。はじめはそのうちに道が見つかるだろうと簡単に考えていましたが,ぜんぜん見つかりません。助けを求めようにも携帯の電波が届かないところで,人が通りかかるような場所でもありません。そして,そのうちに「遭難」という2文字が脳裏に浮かんできました。

 しかし,このような場合に道を下ってはいけないことは登山の鉄則です。ひたすら登ることです,そして上りながら人工物を探しました。と,ある沢状態になったところにトラ紐,つまり,黄色と黒のしましまになったロープを発見しました。このロープは1時間前にも見かけたもので,この場所を通るのは2度目です。で,この前はこのロープが道沿いに縦に張ってあったので,てっきりこれが正規の登山道だと思って下っていったのです。そこで,少し冷静に考えてみました。ひょっとしたらこのロープはもともとこの道を通行止めにするために横に張ってあったのが,水に流されてこのような状態になっているのではないかと。そこでこの付近の道を見回したところ,ありました。笹を掻き分けていったん登っていくようにつけられた道が。やっと,登山道を見つけました。すると,女房,子供の顔が浮かんできました。母子家庭にならなくてよかったよ。
 
 遭難するときというのは大体こんな感じじゃないかと思います。山を甘く見てはいけません。雨で増水しただけで山の状態がすっかり変わってしまうことを身をもって体験しました。しかし,今回は時間的に余裕を持って行動していたからよかったです。これが日没間際だと,たぶんアウトだったと思います。夜になっても帰ってこないし,携帯電話に連絡しても圏外の表示がされるということで,女房が警察に遭難届を出したことでしょう。そして,今朝の朝刊には「東海女子大学に勤務の蘭和真さんが北アルプスの焼岳付近で遭難か。昨晩から消息を絶つ。」といったような3面記事が掲載されたかもしれません(山の遭難事故はすぐに新聞記事になるのです)。

 ちなみに,私は山岳保険というものに入っています。私の場合,年間の掛け金は15000円です。で,何を保証してくれるかというと,行方不明になったときの捜索費用を300万円を限度に支払ってもらえます。そして,救助が必要になったときの費用を200万円を限度に支払ってもらえます。さらに,他人に損害を与えたときに1億円を限度に支払ってもらえます。
 
 またまたちなみに,遭難をしたときには警察が捜索をしてくれますが,警察の力だけでは限度があります。そこで,地元の遭難対策協議会の人や消防団の人などに応援を頼むことが普通なのですが,1人1日あたり3万円程度は必要になってきます。ですから,30人に協力をお願いしたら1日で90万円はかかるといった計算になります。また,県警のヘリコプターが使えれば費用はかかりませんが,使えないときには民間のヘリを飛ばさなければなりません。そうすると1時間あたり100万円はかかるのです。

 ともあれ,無事に下山できてよかったです。そして,本日の教授会にも出席できてよかったです。
 ちなみに,焼岳は幼児には無理かもしれません。小学校の高学年ぐらいになってから連れてきたほうがよいかもしれません。

 あめはなめると甘いが,山をなめると苦いぞ,とどこかの山の登山口に看板が立っていました。
 今回は本当に苦い経験をしました。

 では,本日はこの辺で,ごきげんよう!


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9月9日(木) アテネパラリンピックも始まります

 先日,例によって自転車通勤での帰宅途中,あまりにも天気がよかったので,長森岩戸から金華山ドライブウエー経由で岐阜市の中心部へ抜けてみました。で,岐阜市役所の前を通ったところ下の写真のとおり激励の横断幕が掲げられていました。そうなんです。アテネオリンピックに続いてアテネパラリンピックもこの17日から始まるのです。岐阜県関係者からも陸上競技に川島由美選手が,車椅子バスケットボールに後藤幸子選手が出場するのです。
 心からエールを送りたいと思います。



 さて,このパラリンピックですが,始まりは第2次世界大戦によって傷害を負った兵士に対するリハビリテーションのためにおこなわれていたスポーツです。この時,英国のロンドン郊外にあるストーク・マンデビル(Stoke Mandeville)病院でおこなわれていた脊椎損傷者に対するリハビリテーションのためのスポーツ活動はその後の障害者スポーツをリードしていきました。この病院では,当時,障害者の社会復帰を目的としたスポーツ療法の研究と実践が積極的におこなわれていたのです。すなわち,この病院には,大戦後半ドイツとの戦争が激化したことにより,脊髄損傷によって戦線を離脱する兵士の急増を見越して,1944年,首相チャーチルの命により脊髄損傷科(Spinal Unit)が開設されましたが,その診療科の初代科長のルードウィッヒ・グットマン(Ludwing Guttmann)医師は,「手術よりもスポーツを」という方針で障害者のリハビリテーションのために積極的にスポーツを取り入れていました。そして,患者の心身両面の機能回復をさせ,社会復帰をうながしていったのです。

 終戦後も,この方針は継続され,グットマンは1948年7月28日,大戦後はじめて開催されたロンドンオリンピックの開会式の日に,ストーク・マンデンビル病院内で車椅子患者のアーチェリー大会を開催しました。そして,これがパラリンピックの原点であると考えられています。この大会はその後毎年おこなわれるようになりましたが,1952年には英国以外の国からの参加があり,国際大会へと発展し,これが第1回の国際ストーク・マンデビル競技大会となりました。そして,1960年に英国,オランダ,ベルギー,イタリア,フランスの5カ国により国際ストーク・マンデビル大会委員会(ISMGC:International Stoke Mandeville Games Committee)が設立され,グットマン氏が初代の会長に就任しました。そして,その年に開催されたオリンピックローマ大会の後に第9回国際ストーク・マンデビル大会をローマで開催したのです。当時はまだ,パラリンピックという言葉がなく,一部でParaplegic Olympic(対麻痺者のオリンピック)と呼ばれていました。そして,そこからパラリンピックという言葉が生まれたようです。パラリンピックという語が正式名称と認められたのは,1985年に国際オリンピック委員会が国際身体者障害者スポーツ大会のことをパラリンピックと称することに同意した後のことです。したがって,それ以前は愛称としてパラリンピックという言葉が使われていたわけで,1988のソウル大会から正式名称としてパラリンピックという大会名が使われるようになりました。ちなみに,現在,パラリンピックの意味は,Paraplegic Olympicではなく,Parallel Olympic(もう一つのオリンピック)であるという認識が一般的です。また,パラリンピック開催回数については,1989年に国際パラリンピック委員会(IPC)が設立された後,1960年にローマで開催された第9回国際ストーク・マンデビル大会を第1回パラリンピックローマ大会と位置づけることになりました。(以上,蘭和真著,東京パラリンピック大会と障害者スポーツ,東海女子大学紀要,第22号:p13−23より引用)
 そこで,今回のアテネパラリンピックは第12回の夏季大会ということになるのです。


夏季パラリンピック年表(IPC発表)

開催年

開催都市

参加
国数

参加
人数

日本の成績

1 2 3
1 1960  ローマ  23 400   0 0 0 0
2 1964  東京  22 390   1 5 4 10
3 1968  テルアビブ  29 750   2 2 9 13
4 1972  ハイデルベルグ  44 1,000   4 5 3 12
5 1976  トロント  42 1,600   11 9 5 25
6 1980  アーヘン  42 2,500   9 11 7 27
7 1984  ニューヨーク/ストーク・マンデビル  42 4,080   3 2 5 10
8 1988  ソウル  61 3,053   6 5 2 13
9 1992  バルセロナ  82 3,020   16 12 17 45
10 1996  アトランタ 103 3,195   8 7 15 30
11 2000  シドニー

123

3,843   13 17 11 41
12 2004 アテネ            
13 2008  北京

冬季パラリンピック年表(IPC発表)

開催年

開催都市

参加
国数

参加
人数

日本の成績

1 2 3
1 1976  エーンシェルドスピーク  14

   250

0 0 0 0
2 1980  ヤイロ  18 350   0 0 0 0
3 1984  インスブルック  22 350   0 0 0 0
4 1988  インスブルック  22 397   0 0 2 2
5 1992  アルベールビル  24 475   0 0 2 2
6 1994  リレハンメル  31 1,000   0 3 3 6
7 1998  長野  32 571   12 16 13 41
8 2002  ソルトレーク  36

416

0 0 3 3
9 2006  トリノ
10 2010 バンクーバー            

 ここ最近のパラリンピックですが,完全に競技志向にシフトしてきています。特に,欧米ではそのようです。その意味では日本は少し遅れているかもしれません。
 競技志向ということはスポーツに高い技術を求めるということで,したがって,かつてのような障害者の身体的および精神的な社会復帰を目指す大会ではなくなっているのではないかと思います。ですから,実施種目数も絞られ,簡単に出場したり,メダルを取ったりすることができなくなってきているようです。良し悪しは別にして,見る人々の目も厳しくなってきたことからも,厳しい真の戦いが強いられるようになってきたということなのでしょう。
 欧米ではプロの選手をプロのコーチが指導しするというのもあたりまえのようです。ですからお金が絡みオリンピックと同じような商業主義,メディア主導といった弊害も生まれてきているようです。当然のことながらドーピングの問題もオリンピックと同様になってきています。今回の大会からは禁止薬物に指定される数も増やされ,以前だと,事前に申告していれば認められた薬でも今回からは認められないことになりました。ですから選手の中には数十年服用を続けた薬を違うものに変えなければならなくなった人もいると聞いています。

 ともあれ,オリンピックに続いて,熱い戦いをテレビで観戦したいと思っています。

 それでは今日はこの辺で,ごきげんよう。


 
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9月2日(木) オリンピックが我が家に残していったもの

 日本選手が大活躍する中,アテネオリンピックも終了しました。我が家でも連日テレビ観戦で家族一同盛り上がっていました。特に,東海女子大学の卒業生が出場しているということで女子ホッケーに関しては毎日チェックをしていました。たまたま,8月14日の初戦,中国戦の際には家内の実家に里帰りをしていたということでおじいちゃん,おばあちゃんと一緒に応援しようということになりました。が,中継がBS1でしかなされないということで,実家には衛星放送が受信できる装置がないので,観戦できないことがわかりました。そこで,急遽,BS放送が受信できる近所に住むおじさんの家に家族全員で出かけることになりました。もちろん,おじいちゃんが手みやげというか,みんなで呑むために,キリンクラッシックラガーの缶ビールを一箱を買い込んで,つまみや何やらをおじさんの家に持ち込んでビールをがんがん呑みながらみんなで観戦しました。結果は残念ながら,負けてはしまいましたが,それはそれは盛り上がりました。
 
 話は変わりますが,7月29日にホッケー日本代表主将の三浦選手,MFの齋藤選手,DFの山本選手に大学に来てもらい壮行会を行いましたが,その際に小学2年生の娘を連れてきましたところ,選手達に握手をしてもらったそうです。ですから,娘などはテレビ画面に3選手が映るとそれはもう大はしゃぎで,あのお姉ちゃんに握手してもらったんだとうるさいほどアピールをしていました。

 大会期間中は6歳の次女,4歳の長男も各競技の応援で大忙しでした。各競技の試合を見ていても訳は分からないのだと思いますが,日本選手が活躍すると跳び上がって喜んでいました。そして,4歳の息子などは日の丸を見るたびに,がんばれにっぽん,がんばれにっぽん,と叫んでいました。しかし,これがスポーツの大会だからよいのですが,戦争などとなると,人間の心理はちょっと怖いなという気もしました。

 で,オリンピックが終わって,小学2年の娘はホッケー選手になりたいといっています。私はバドミントン選手もかっこいいぞーと言っていますが,バドミントン選手はテレビに全然出てこなかったのでバドミントンはかっこわるいと言っています。そして,ホッケースティックを借りてきてパスやドリブルの練習をしています。そして,めちゃおもしろいと言っています。

 6歳の娘はもう2年ほどスイミングスクールに通っていますが,最近やめたいと言っていました。しかし,オリンピックが終わって,スイミングどうするの,やめるのと聞いてみました。そしたら,スイミングがんばって,オリンピックにでると言っています。テレビの影響力の恐ろしさです。

 4歳の息子もスポーツの虜になりました。そして,突然,野球の選手になると言い出しました。今は盛んに家の中でスライディングの練習をしています。アテネオリンピックでの宮本選手のスライディングの影響です。それから,昔買ってやったプラスティックのおもちゃのバットをおもちゃ箱の下の方から見つけてきて家の中で振り回しています。危なくて仕方ありません。お姉ちゃん達も何度も叩かれて泣いています。で,あまりにいたずらが過ぎるので女房にしかられバットを取り上げられていました。しかし,少しかわいそうだったので,私がスポーツDEPOに連れて行って,幼児用のグローブとボール,それに木製のバットを買ってあげました。そして,男同士の約束だといって,バットやボールを使うときのルールを決め,キャッチボールやバッティングの練習をしています。
 それから,北島選手の影響からか水泳もやりたいと言い出しました。ですから,近くのスイミングスクールに体験入学することになりました。で,そのために,女房とお風呂で潜る練習をしたそうです。そうしたところ,翌日,その影響からか耳が痛くなったようで病院に連れていきました。何事もやりすぎはいけません。

 我が家ではアテネオリンピックを境にさらに一層スポーツが盛んになりました。これは大変よいことで我が家の財産となることでしょう。しかし,少しは勉強もしなさいよといいたいところですが,まあ仕方ないでしょう。スポーツを通じて,のびのびと健康で明るい子供に成長してくれればと願っている今日この頃です。

 で,私と言ったら,子供がスポーツをやるのに比例して,いかに節約をするかに腐心しています。
 (スポーツをやるのにはお金がかかるのです)
 
 お酒の質を下げています(量は減らせないので)。
 なるべく車は使わないで自転車で行動しています(ガソリン代を節約するために)。
 自動販売機で飲み物は買いません(麦茶を家で作って持ち歩いています)。
 外食はしません(女房が作った弁当を食べています)。
 服はユニクロ以外では買いません(しかもシーズンオフの処分セールの時に来年分を買っています)。
 床屋は3ヶ月に1回しか行きません(以前は毎月行っていました)。
 健康管理に気を使っています(医療費もバカになりませんので)。
 その他諸々。

 ということで,アテネオリンピックは我が家に色々なことを残していってくれました。


 それでは,ごきげんよう。

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8月6日(木)白山