12月26(金) 1873年のバドミントンの広告 |
下の図は,1873年11月1日(土)に英国のあるスポーツ関係の雑誌に掲載された広告である。
内容は,バドミントンゲームを宣伝するものである。たぶん,ラケット,シャトル,ネット,ポストなどをセットにして売り出していたのであろう。
上の広告では,バドミントンを「ニュー・アウトドア・インディアン・ローン・ゲーム」と紹介している。当時,イギリス人が大英帝国の植民地であったインドでやっていたバドミントンというゲームを,イギリスのローン(芝)の上でやろうと提案している。もちろん,この提案はローンテニスやクロッケーの影響と考えられる。但し書きでは,クロッケーより,心地よくて,健康的で,愉快であると宣伝している。
ちなみに,クロッケーである。日本ではなじみがないスポーツであるが,イギリスでは結構人気がある。これは,あのゲートボールの元となったゲームなのである。当然,プレー風景も似ている。
またまた,ちなみに,あのテニスのウインブルドン選手権は,このクロッケーとは切っても切れない仲なのである。
なぜかというと,あの選手権を主催しているのは,「The All England Lawn Tennis & Croquet Club」,つまり,オール・イングランド・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブなのである。
バドミントンの全英選手権は「The Badminton Associaiton of England」,つまり,イングランドバドミントン協会が主催しているのであるが,テニスの場合は,な,な,なんと,プライベートな一クラブが主催をしているのである。しかも,ローンテニス・アンド・クロッケークラブがである。
さらに続きがある。この「The All England Lawn Tennis & Croquet Club」なのであるが,元々は,1868年に「The All England Croquet Club」という名称で,クロッケーをやるために生まれたプライベートクラブなのである。テニスはあとから付け足されたのである。それもおもしろい。つまりテニスが付け足された理由である。1870年代,バドミントンとほぼ時を同じくして,英国で産声を上げたローンテニスであるが,色々なところで行われるようになっていった。当然,芝の競技場を持つ「The All England Croquet Club」でも行われるようになった。しかしながら,このとき,このクラブにはお金がなかった。つまり,経済的に苦しかったのである。記録によるとクラブ所有のローラーを修理する費用にも事欠いていたらしい。そこで,名案。当時人気のでてきたローンテニスの大会を行い,入場料金を取って収益をあげ,ローラを修理してしまおうと微かな期待を抱きながら大会の開催を画策。1877年に第1回大会を開催。これが,あにはからんや,大盛況でローラーは元通りに。そこで,これに味を占め,毎年行われるようになったという次第。当然クラブの名称も,「The All England Lawn Tennis & Croquet Club」となったわけである。
話を戻して,この広告を出したのは,ジェームス・リリーホワイト,というスポーツ商である。このリリーホワイトという,今で言ったらスポーツショップであるが,今日でも英国で幅広く営業活動を展開している。ロンドンの目抜き通りのピカデリーサーカス,日本で言えば銀座4丁目に当たるような所にも店を構えている。ちなみにサーカスというのは,曲芸をやるあれではなく,円形の交差点といったような意味で,つまりロータリーみたいになっているところで,昔,馬車が方向転換をしやすいように交差点がそんな作りになっていたことが起源である。と,ま,どうでもいいことだけれど。
昔,フレッドペリーというブランドがあったが,確かこれは,リリーホワイトのブランド名だったと思う。
さて,この広告,私が苦労をして見つけたもので,日本はもちろんのこと,英国でも知っている人はいないんじゃないかと思う。
この広告は,十数年前,私がロンドンでバドミントンの研究をしていたとき,ロンドン郊外のコリンデールという所にあったブリティッシュニュースペーパーライブラリーというところで見つけたものだ。この図書館は英国内で発行されたほとんどすべての新聞や雑誌を所蔵している図書館で,今はブリティッシュライブラリーが大英博物館の地下から移転したのに伴って,統合されたのじゃないかと思う。
当時は,この図書館,それこそ古めかしい建物で,床はきしむし,建物の中は薄暗く,古い雑誌ばかりを集めているので独特のにおいがした。そんなところに,朝開館と同時に入室し,閉館まで数日間こもって資料を集めた。1870年代に発行されたスポーツ関係の雑誌を手当たり次第,1ぺーじづつめくり,バドミントン関係の記事を探した。このときおもしろかったのは資料の貸し出し方法であった。読みたい資料を申込用紙に記入し,受付に出すと,係りの人が資料を台車に乗せて閲覧している席まで持ってきてくれるのである。確か1回あたり10冊までだったと思うが。資料は,5分程度で持ってきてくれる時もあれば,20分くらいかかるときもあった。疲れたときは,申し込んでおいて,そのまま近所のパブへ行き,ちびり,ちびりとビールを飲んで,戻ってみると,机の上に資料が置いてある,といった感じであった。
ともあれ,1873年に,この様なバドミントンの広告が英国内で出版された雑誌に出されていたということは,そのときにかなり進化したゲームとしてバドミントンが存在していたことは間違いないわけである。
ということで,今年のバドミントン研究も終わりといたします。
最後までお読み頂きありがとうございました。
来年も,また,がんばって研究を続け,話題を提供したいと存じます。
それでは皆さんよいお年をお迎え下さい。失礼いたしました。
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12月20(土) 雪の金華山 |
今年の冬は本当に暖かく,12月に入っても半袖で過ごせるほどの日がありましたが,さすがにクリスマスが近づくと,サンタさんのいたずらかどうかはわかりませんが,本格的な寒さがやってきました。特に,昨日からは日本列島を本格的な寒気が襲い,大雪に見舞われたところも多かったようです。
ここ,美濃地方でも,昨夜から,雪が断続的に降り,朝,目覚めたときには平野部でも20cmほどの積雪がありました。
そこで,本日,午後から,出勤しなければならない用事があったので,少し早めに家を出て,雪の金華山に登ってきました。
例によって,東海女子大学から2kmほどの所にある,鼻高コースの登山口からサクサクと雪を踏みしめ,気持ちのよい汗をかいてきました。今は,シャワーを浴びて研究室でパソコンの前に向かっているところです。私の研究室は体育館の2階にありますが,体育館のフロアーでは東海女子短期大学付属幼稚園の園児達が,2時から本学で行われる東海芸術祭に出演するために,最後のリハーサルを行っています。そして,その演奏が私の研究室にも聞こえてきています。
では,雪の金華山の写真を撮ってきましたので,暇つぶしにご覧下さい。
登山口へ続く林道です。 |
鼻高コースの入り口です。 |
鼻高コースの入り口は竹林となっていますが, 雪の重みで竹が入り口をふさぎ通れませんでした。 そこで,少し迂回をし,道無き道を進みながら, 正規の登山道へ入りました。 |
養蜂場もこのありさまです。 |
登山道のあちこちは倒木で道がふさがれています。 |
これも倒木です。通り抜けるのに難儀しました。 |
この様に登山道は雪で埋め尽くされていました。 多いところでは膝ぐらいまでありました。 |
頂上直下のところで後ろを振り返ると, 越えてきたアップダウンが雪で霞んで見えました。 |
頂上に奉られている祠にお参りをしました。 |
頂上から見下ろす岐阜市内。 一面の銀世界でした。 |
雪の岐阜城。とても静かできれいでした。 |
帰りは,東坂登山道を下ってきました。 ここは南斜面なので雪が極端に少なく, かえって,滑りやすい道となっていました。 いつもは往復1時間15分くらいですが, 今日はその2倍の時間を要しました。 |
さて,体育館フロアーから,東海芸術祭の始まりを告げる司会者のアナウンスが聞こえてきました。ああ,この声は,東海女子短期大学の天野先生の声ではないですか(ちなみに天野先生は日本が初めて,バドミントンのユーバー杯を獲得したときの主力メンバーです)。
それでは,覗きに行くこととします。
今日も夕方は家族でのバドミントン。子供と練習した後は,S谷さんとシングルスでもしよう。温泉に入ったらおいしいビールを飲もう。今日はしっかりと汗をかいたので格別おいしいお酒が飲めることだろう。楽しみだ。
ということで,さようなら。
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