ベティー・ユーバー女史

 ベティー・ユーバー(Betty Uber)女史とは,バドミントンの女子国別世界選手権の優勝杯(図1)を国際バドミントン連盟に(IBF)に寄贈した女性のことである。そして,その優勝杯自体の名称ともなっている往年の名選手のことである。
 ベティーは1930年代にかけての英国において,あのジョージ・トーマス卿と並び称せられたバドミントンプレーヤーである。
 ベティーはこのユーバーカップを1950年にIBFに寄贈している。しかしながら,財政的な問題で,第1回大会が開催されたのは1956−57年にかけてのことであった。ちなみに第1回大会が開催されたのは英国のリザム・サント・アンズ(Lytham St. Annes)というところであった。またまたちなみに,日本はこのカップを5回も獲得している。


図1 Uber Cup


 彼女は元々テニスプレーヤーであった。ウインブルドン選手権のジュニアの部でも優勝している。しかしながら,彼女が住んでいた地域にはテニスができる施設が少なかったということで,バドミントンに転向した。彼女がバドミントンを始めたのは1924年で,サリー州のサットンバドミントンクラブというところであった。
 最初はローカルな試合で腕を磨いていたが,1925年の全英選手権男子ダブルスのチャンピオンで,さらに夫でもある,H. S. Uber氏のコーチのおかげでめきめきと頭角を現していった。そして,1930年の全英選手権大会,夫と組んだミックスダブルスで初優勝し,その後,3連覇,さらに続けてヒュージ氏と組んで4連覇,計7連覇,その後も1938年にホワイト氏と組んで優勝し計8回の栄冠に輝いている。このミックスダブルス優勝8回の記録は未だ破られていない,金字塔である。また,シングルスでも1935年に優勝。ダブルスでも1931,1937,1938年に3回優勝をしている。(図2参照)

図2 往年のベティー・ユーバー


 このベティー・ユーバー女史であるが,1949年には,「That Badminton Racket」という書物(図3)を執筆している。この本では,1870年〜1949年のバドミントンの歴史や最新のバドミントンの技術および戦術といった内容を扱っている。特にバドミントンの歴史については,日本でもその内容がよく引用されている。
 ただし,この書籍の歴史に関わる著述は,特に,古い年代のものについては,Badminton Gazette誌の記述やその他の文献の引用(盗用)がほとんどである。したがって,色々な文章をつぎはぎしているので,脈絡的におかしなところが多々ある。したがって,この書籍の内容を引用する場合には,その辺の所を考慮する必要がある。

図3 That Badminton Racket タイトルページ


 ベティー・ユーバー女史が没したのは,今からちょうど20年前,1983年4月30日のことであった。

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