ジョージ・トーマス卿

 ジョージ・トーマス卿とは,国際バドミントン連盟(IBF)の初代会長のことである(図1)。そして,選手として,バドミントンガゼットの編集者として,協会役員として,準男爵として,バドミントンの発展に貢献した人である。あのバドミントンの男子国別世界選手権の優勝カップ(Thomas Cup 図2)にも,その発案とバドミントンへの貢献を称えて,彼の名前が冠せられている。
 

図1 ジョージ・トーマス卿 31歳頃 図2 Thomas Cup

 彼のフルネームは,Sir George Alan Thomasで,1918年に父が亡くなった後は,第7代ヤプトン準男爵(seventh Baronet of Yapton: 男爵より下位でナイトより上位)の爵位を受け継いでいる。ちなみに卿(sir)という言葉は,英国では,準男爵およびナイトの爵位を持った人のことを呼ぶときに敬意を表して名前に冠する。
 さて,彼が生まれたのは1881年6月14日,トルコのイスタンブール(当時はコンスタンチノープルと呼ばれていた)の近くにあるテラピアという町であった。

 彼がバドミントンをはじめたのは1899年の秋のことで,英国ハンプシャー州ポーツマスのサウスシーにあったユナイテッドサービスバドミントンクラブに所属した。一方,彼の全英選手権初デビューは1901年の第3回大会であったが,そのときは出場選手が少なかったために補助的に参加をしベスト4に入った。その後,彼は瞬く間に腕を上げ,1903年にはミックスダブルスで初優勝を遂げている。ミックスダブルスでは1906,1907,1911,1914,1920,1921,1922年と計8回の優勝を果たしている。また,男子ダブルスでも,1906年,を皮切りに,1908,1911,1912,1913,1914,1921,1924,1928年と9回優勝している。さらに,男子シングルスでも1920年〜1923年の間に4連覇している。1923年の優勝は彼が41歳の時でこれは今でも最年長記録となっている。

 彼は,選手として活躍する一方,1907年に創刊されたバドミントン協会の機関誌であるバドミントンガゼット誌(図3)の編集者として,1907〜1915年の間その編集に携わった。また,協会役員として1930〜1950年の間,イングランドバドミントン協会の副会長を,1950〜1952年の間,同じくイングランド協会の会長を務めている。さらに,IBFの設立にも奔走し,その初代会長として1934年7月5日の設立日から21年間にわたって,数多くの会議等への出席を始め,IBFの発展に貢献した。1923年には「The Art of Badminton」という技術書(図4)も著している。また,その他多くの著作もある。

図3
バドミントンガゼット誌
創刊号 1907年11月号
図4
The Art of Badminton
タイトルページ


 彼は,バドミントンのほかにも多くのスポーツを愛した。テニスもその中の1つで,イングランド代表として国際大会にも出場したそうだ。ウインブルドンで行われた全英選手権では1911年にはシングルスでベスト8に入っている。また,1907年,1912年にはダブルスでベスト4に入っている。そのほかにも,ホッケーや卓球でも優れた腕前を見せたそうだ。また,第1次世界大戦にも従軍し,メソポタミア砂漠を徒歩で358km歩き抜いたそうだ。

 彼が没したのは,1972年7月23日のことで,享年91歳であった。

 彼の存在無くして,現在のバドミントンの発展はなかったであろう。今,名古屋で全日本総合バドミントン選手権大会が開催されているが,この大会も,もし彼が生まれてなかったら開催されてないかもしれない。

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