バドミントンの初期の歴史

 バドミントン競技のルーツは英国に古くから伝わる,バトルドーアンドシャトルコック(Battledore and Shuttlecock)と呼ばれる羽根突き遊びです。
 以下の文は,バドミントンの初期の歴史について,蘭和真が,東京都バドミントン協会50周年記念誌(1999)p258−263,に寄稿したものです。ご参考にしてください。

 なお,引用をされる場合は,出典を明らかにしておいてください。

バドミントンはじめて物語

世界初のバドミントン協会の誕生

 世界で初めてバドミントン競技に関わる協会が設立された。1893年、英国での出来事だ。協会の名称は「The Badminton Association 」であった。実に単純明快な名称である。他に協会がないわけだから単純は当然である。しかし、その設立理由は面白い。当時の協会の機関誌の記事をかいつまんでみると次のとおりである。その頃の英国にはいくつかのバドミントンクラブがあった。そして、それぞれのクラブが独自のルールを持っていた。いわゆるローカルルールというやつである。クラブの数が増えるにしたがって各クラブは対抗戦を意識し始めた。しかし困った。各クラブのルールが違うのである。対抗戦毎にルールをすりあわせるのは大変なことである。だからといって、一方のルールにあわせれば一方が極端に不利になる。これではつまらない。何とかしたい。それじゃあ、協会をつくってルールを統一しよう、ということでこの協会がつくられたわけである。単純明快な話である。1893年8 月、サウスシークラブのドルビー大佐という人が設立の提案を書状にしたため、英国国内の知りうるすべてのバドミントンクラブに送った。同年9 月12日、呼びかけに応じた14のクラブの代表がハンプシャー州のサウスシーに集まった。そして、いくつかの約束事を取り交わし、めでたく発会したという次第である。初代の会長には発起人のドルビー大佐が就任した。統一ルール、いわゆるアソシエーションルールはというと、枠組みは決められたものの、協会に参画しないクラブもありかなりの混乱があったようだ。自分のクラブのルールやシステムがベストだと信じて疑わないのは古今東西世の常であるが、これが災いしたようである。特に、コートの形状について、このときに採択されたアワーグラス型コート(資料1)がその後の大混乱を招いた。このルールではシャトルがポストの外側を通って相手コートに入った場合はフォルトとされていた。しかし、シャトルが内側を通ったか外側を通ったかの見極めが難しく、もめることが多かったようである。ポストの上にさらに6フィートの鉄製の棒を設置し、ジャッジの手助けとするようにしたが混乱は避けられなかった。多数のクラブの反対を尻目に生き延びたコートであったが、その不都合さを理由に1901年4 月の定期総会で変更が可決された。そして、その時、現行と同様、同サイズの長方形型コートが採択され現在に至っている。アワーグラス型コートについては、設立当初から会長のドルビー大佐が積極的に推していたようである。このドルビー大佐、1900年から南アフリカへの駐在を命じられ、1905年に戻ってくるまで英国を離れている。コートの変更は彼が英国を離れた直後の出来事であった。仮にこのときに彼がいたらこのルールの変更はどうなっていたであろうか。コートのサイズはどうなっていたであろうか。不都合なルールは必然的に変わる、と言われれば全く異論はない。しかし、ある人がたまたまそこにいたからということで偶然的にルールが変わったり変わらなかったりすることもある。必然と偶然の波間を漂いながら、長い時間をかけて私たちの手元に届いた現行のルール、定期総会の時に違った大きさのコートが採択されていたら、世界のバドミントンの勢力図も変わっていたかもしれない。

                               

(資料1)                            

1870年代のローカルルール

 すでに1870年代には文書化されたローカルルールが英国国内の出版社から発行されている。著者の手元にも10件ほどのルールのコピーがある。簡単なゲームの手引書的なものも多いが、中にはかなり進んでいるルールもみられる。折角なので少しながめてみよう。当時はコートのことをグラウンドと呼んでいた。屋外でプレーするのが一般的だったのだろう。コートのサイズや形状、ネットの高さはルールによってまちまちである(資料2)。コートのサイズは、使える土地の広さやプレーヤーの力量、プレーヤーの数によって変えたほうがよいとしているものも多い。まさにローカルルールである。プレーヤーの数も1対1から多い場合には8対8というのもある。得点法やゲームの進め方にも色々なバリエーションがみられる。今、まさに、生まれたばかりのニューゲームのルール作りが、試行錯誤を繰り返しながら進められている様子が伺い知れる。この時期こそ、バドミントンがニューゲームとしての市民権を得たときといえよう。
 ローカルルールといえば世界で初めてといわれるルールがよく話題になる。くだんの協会の設立に携わった人たちの回顧録からこれについて探ってみると、このルールはセルビールールと呼ばれていたようだ。考案者はセルビー大佐(資料3)という軍人である。作られたのは1873ー74年で、インドにあった英国軍プーナ駐屯地の体操場から発行されたとある。この冊子のタイトルページには“さあ、法律と権威ですよ、ご婦人方”というシェークスピアの一節がユーモアたっぷりに引用されていたという。想像するに、この当時、プーナ駐屯地では軍人やその家族が盛んにこの新しいゲームを楽しんでいたようだ。しかし、まだ、成文化されたルールがなく、ゲームを行うたびにもめていたのだろう。そこで、セルビー大佐がルールを整理して文書にしたというわけだ。ちなみにセルビー大佐はエンジニアだったというから、このような作業が得意だったのかもしれない。さて、このルール、1876年に改訂され再び出版されている。そして、さらに1889年にハート氏(The Badminton Association の設立に貢献した人物)によって改訂され、アソシエーションルールとしてバドミントン協会に採用されたという。従って、このセルビールールこそが現行ルールの直接的なルーツということになる。実際のルールが提示されていないので全体像は定かではないが、コートのサイズは40フィート6 インチ×20フィートだったようである。現行のダブルスコートが44フィート×20フィートなので、サイドラインが約1メートル短いだけの違いである。ゲームの進め方についても原則的に現行のルールと大きな違いはなかったと想像できる。アソシエーションルールはこのセルビールールの基本原則をそのまま取り込んだという記録があるからだ。セルビー大佐はルールの作成だけでなくバドミントンの戦術、戦法に関しても論理的にわかりやすくまとめている。1875年のクリスマスにボンベイにおいて「バドミントンの理論」という題名で発表している。そのなかには現在の入門書に書かれているような内容も多々みられる。例えば次のような記述だ。前衛と後衛のプレーヤーの間にあがったシャトルは前衛が下がりながら打つよりも後衛が前進しながら打ったほうがよい。アンダーハンドはなるべく使わないでオーバーヘッドでシャトルを打て。シングルスではロングハイサービスが有効だ。相手がオーバーヘッドで打つ可能性がある場合はできるだけネットから遠いところへシャトルを送れ。このときすでにバドミントンはかなり高度なゲームに進化していたと想像できる。

バドミントンの発祥

 バドミントンの発祥については次のような定説がある。すなわち、「1873年のある日、英国グロスターシア州にあるボーフォート公爵の邸宅で行われたパーティーで、インド帰りの将校がインドのプーナ地方に数世紀にわたって伝わるプーナあそびを紹介したところこれが人々を魅了した。そこでこのゲームのことを公爵の邸宅の名にちなんでバドミントンと呼ぶようになった」という話である。しかし、この話、劇的すぎてにわかには信じがたい。むしろかなりの確率で眉唾物といわざるを得ない。バドミントンの発祥については、多くの史料から推察するに、起源を英国に古くから伝わるバトルドーアンドシャトルコック(資料4)という羽根突き遊びに求めたほうが合理的で自然であろう。つまり、こういうことだ。19世紀半ば頃、英国のボーフォート公爵の邸宅であるバドミントンハウス(資料5,6)の大広間ではバトルドーアンドシャトルコックあそびが盛んに行われていた。最初は1人で打って、あるいは2人で打ち合って打球音やシャトルの飛ぶ様を楽しんでいたに違いない。しかし、無目的に打っているだけではだんだんと飽きてくる。そこで、どれだけ続けられるかという、いわゆる記録に挑戦するゲームに進化していった。事実、現在のバドミントンハウスには、1845年2月に2人の婦人が2018回続けた、という記録が記されたバトルドーが残されている。しかし、どれだけ続けられるかというゲームも果てしなく続いてしまうと面白くなくなる。ここで、このゲームを面白くするために新しい発想が生まれたようだ。それは2人の間にロープを張ってそれを越すように打ち合い、どちらが先に失敗するかを競うという発想であった。確たる史料がないので残念であるが、1850年頃のバドミントンハウスでの出来事と推察される。その後この新しい発想のゲームに色々なルールが付け加えられ進化していったのだろう。当時の第8代ボーフォート公爵(資料7)の親友にボルドウィンというトランプゲームのルール作りの名人がおり、彼が初期のルール作りに関係したのではないかという説もある。1860年にはバドミントンバトルドーという名のゲームがロンドンの玩具屋から提案されたという記録がある。内容は定かではないがこのゲームもバドミントンの進化に一役買ったと考えられる。バドミントンハウスから発信されたこのゲームは人々に大いに受け入れられた。英国国内だけではなく、当時大英帝国の植民地であったインドへも軍人やその家族、入植者によって広められたようである。1860年代後半にはインドでも盛んに行われるようになったという記録が残っている。しかしながら、1870年過ぎまで、この新しいゲームには確たる名前がなかったようである。したがって、“The Game at Badminton ”と呼ばれていたという記録もある。また、当時インドでプレーしていた人たちの回顧録によると、プーナ駐屯地では英国人が持ち込んだこの新しいゲームのことを独自に“プーナゲーム”と名付けて呼んでいたという記録もある。もちろん、“プーナゲーム”という土着の遊びがあったということではない。さらに、プーナから南に約100 kmのサタラ駐屯地ではこのゲームをみた現地のインド人が“タムフールゲーム”と名付けて呼んでいたという。シャトルを打つ音がタムタムと呼ばれるインドの太鼓の音に似ていたことと、シャトルがフラワー(花)に似ていたことからタムフラワーがなまってタムフールになったということだ。バドミントンという名称に落ち着いたのは1870年過ぎのことのようだ(資料8)。何かきっかけがあったのか、あるいは自然に定着したのかは定かではない。ただし、バドミントンハウスにちなんで、ということだけは間違いなかろう。



 

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