日本バドミントンの初期の歴史

 以下の文は,蘭和真が「バドミントン指導の手引き」スポーツ科学トレーニングセンター編,p9−10に執筆したものです。ご参考にしてください。なお引用する場合は出典を明らかにしておいてください。

 英国で生まれたバドミントン競技が日本に伝えられたのは,大正10年(1921)頃のことと考えられる。正確には,それ以前にも横浜や神戸では,欧米人によって運営されているスポーツクラブで行われていたようである。しかしながら,その時に日本人に伝えられていたかどうかは定かでない。
 さて,当時,横浜にはY.M.C.A.(キリスト教青年会)があった。そして,そこには名誉主事としてS・スネードという人物が勤務していた。彼は大正10年(1921)に休暇を取って米国へ帰省した。スネード氏は,その際に,米国Y.M.C.A.より寄贈されたバドミントン用具を横浜Y.M.C.A.に持ち帰った。そして,これを横浜Y.M.C.A.の体育主事であった広田兼敏氏に渡した。広田氏は,早速,横浜の欧米人によって運営されているスポーツクラブを訪ね,会長のヘセルタン氏にバドミントンの手ほどきを受けたそうである。したがって,広田氏のこのバドミントンとの出会いが,日本におけるバドミントンの始まりとみてよかろう。
 広田氏がバドミントンに出会った頃のバドミントンは,欧米人のクラブにおいても,競技というよりは,むしろ,レクレーションとして行われていたようである。しかしながら,昭和6年(1931)頃になると,横浜と神戸の欧米人によるスポーツクラブ間でインターポートバドミントン定期戦(バドミントンの港町対抗戦)が,毎年,盛大に行われるようになった。そして,この定期戦が熱を帯びてくると同時に,バドミントンも競技的な色彩を帯びるようになってきた。そこで,これに目を付けた広田氏は,昭和8年(1933)には横浜Y.M.C.A.の体育活動にバドミントンを取り入れた。また,昭和9年(1934)には我が国で最初のバドミントンの市民大会を約30名の参加を得て,横浜の馬車道広場の屋外コートで開催した。さらに,昭和12年(1937)には横浜Y.M.C.A.バドミントンクラブを結成し,今日の日本におけるバドミントンの礎を築いていった。
  一方,広田氏と同様に,この時期にバドミントンの普及につとめた人物がいる。その人の名は岡藤吉である。岡氏は弟と共同で横浜市にナルト・スポーツという運動具店を経営していた。彼はここでバドミントン用具を製造し,インドネシアなどの国に輸出すると同時に,社内に屋外バドミントンコートを作り,一般の人にもコートを開放した。そして,日本語による最初のルールブックを刊行するなどバドミントンの普及に貢献した。その後,広田氏や岡氏などの働きかけにより,神奈川県において,コロンビア,古川電線,ナルト・スポーツの3つの会社にバドミントンクラブが誕生した。そこで,昭和14年に横浜Y.M.C.A.バドミントンクラブと併せて4つのクラブで,日本で最初の都道府県協会である神奈川県バドミントン協会が設立された。
 第2次世界大戦によって,日本におけるバドミントンの萌芽はつみ取られたようにみられた。しかしながら,広田氏を始めとする熱心なバドミントン愛好家によって,敗戦後まもなくの頃から,復興の土音とともにシャトルの打球音は復活した。多くの人がその日の糧を求めてさまよう時代であったにもかかわらず,昭和21年(1946)には,横浜Y.M.C.A.と慶応大学でバドミントンの練習が再開されたという。また,大阪Y.M.C.A.でも,ほぼ同時期にバドミントンの練習を始めたという。各地にこのような動きが広まり,ついには,中央協会設立の気運が高まった。すなわち日本バドミントン協会を作ろうという動きである。折しも,昭和21年(1946)11月に,第1回国民体育大会が京都府を中心にして開催されている間,大阪Y.M.C.A.で設立準備会が開催され,同月2日付けで日本バドミントン協会が創立した。そして,昭和23年(1948)5月には第1回全日本バドミントン選手権が開催された。また,同年12月には日本体育協会への加盟が認められ,第4回国民体育大会らから正式種目として参加することになった。さらに,昭和25年(1950)には第1回全日本学生バドミントン選手権(インカレ),昭和26年(1951)には第1回全国高等学校体育大会バドミントン競技大会(インターハイ)と第1回実業団バドミントン選手権といった全国大会が開催されるようになった。一方,昭和27年(1952)には,はやくもI.B.F.(国際バドミントン連盟)への加盟国として承認され,昭和29年(1954)には日本の男子チームが第3回トマス杯大会アジア地区予選に出場し,世界の檜舞台に立った。その後,多くの日本人選手が国際大会へ参加するようになり,昭和41年(1966)には秋山真男選手が全英選手権の男子シングルスで準優勝を飾っている。また,同年には日本の女子チームがユーバー杯大会において,見事,初出場,初優勝を飾っている。日本の女子チームは,その後,この優勝を含めて5回の優勝を果たし,日本バドミントン界の国際舞台における礎を築いた。

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