以下の文は,平成12年8月に,全日本教職員連盟の研修会において講演した内容の要約です(JEF NEWS,68号,p5−7掲載)。

 バドミントン競技の初期の歴史およびその当時のルールからバドミントンの原点を探るというテーマで話しをします。その理由は、現在バドミントンもオリンピック種目になり、競技指向が高まってきました。スポーツの世界で勝つことは非常に大切なことで、それを目指して努力することは何にもまして大切なことです。しかし、心に余裕のない状態で勝つことばかり考えますと、何のためにスポーツをやるのか分からない状態になってしまいます。自分も選手として、指導者としてそのようなことを経験して釆ました。せめて指導者は、少しくらいの余裕を持って目的を達成してほしいものです。スポーツの最終的な目的は人生を豊かにするもの、自分の生きている証しをつかみ取るためのものだと思います。そのように考える限り、スポーツは文化です。もちろんバドミントンも文化です。そこで歴史に触れることで、文化の匂いを嗅ぎ、それをもって指導に生かしてほしいのです。目先の勝ちだけにこだわっていると大きく勝つことはできません。一つの例としてドイツのサッカーを取り上げますと、少年サッカーのトップチームの練習は週3回、1回当たり90分以内で、指導者同士の暗黙の了解が成り立っているといいます。彼らにはサッカーは一生やり続けてこそ価値がある、という価値観があります。やがてその子(選手)には、その人にとって最高レベルの競技力を発揮するときがきますので、そのときに全力を注げば良い、と考えているのです。日本ではそのような発想がないので、ジュニアレベルでは世界と遜色がないのですが、上に行けば行くほど競技力が見劣りするようになります。このようなことから日本はまだスポーツ後進国なわけです。もっと長い目で、スポーツを文化として捉える指導をしていくことで発展させていくことが必要になります。 スポーツと言う言葉はそもそも「身体の外へ憂鬱なものを運びだす」と言う意味の言葉から生まれたものです。毎日の生活の中で、気晴らしに始めたものがやがて一つの形を作ってスポーツになっていきます。スポーツの多くはイギリス型とアメリカ型の範疇に含まれます。イギリス型の多くは昔からの遊び、例えば祭礼の行事が日常的に行われるようになって、そこからルールが生まれてきます。やがて他の地域との交流が始まると統一ルールが作られるようになってきます。サッカーは祭礼で行われていた神事(遊び)がパブリックスクール等で行われるようになり、いくつかの交流を経て統一ルールを持った協会が結成されました。しかし、手で扱って良いとする派と手で扱うのは禁止とする派の対立があり、手で扱って良いとする派が分離して別の組織を作りました。このようにしてサッカーとラグビーが誕生してきます。
 さて本題に入りましょう。日本では昔からバドミントンの世界の定説があります。1873年、英国のグロスターシア州にあるポーフオート公爵邸でインド帰りの将校がプーナ地方に伝わる遊びとして紹介しました。そこで公爵の邸宅の名にちなんでバドミントンと名付けた」というものです。しかしこれは信じがたいのです。なぜなら英国には古くから「バトルトアンドシャトルコック」という遊びがあり、ポーフオート公爵のバドミントンハウスで盛んに行われていたというのです。
 やがて道具も発達し、フレームに革を張ったものが登場しました。最初、一人でシャトルをっいて高く上げたり、音を楽しんでいたものが(太鼓のような音がしますので)、一人ではおもしろくないからと二人で打ち始めます。そして何回続いたかを、ラケットの革に記録するようになりました。しかし、何回続くかというのもあまり長いと飽きてきますので、問に障害物を置くことになりました。このようにしてゲームが作られていきました01850年代のことであるらしいのです01870年代になりますと、ルールに関する本がたくさん出されました01893年、初めての協会が設立されました。発起人はドルビー大佐。初代会長もドルビ一大佐です。この時採用されたコートは、ポスト周辺の中央部分がくびれているアワーグラス型コートです。これは大変な不都合があったので、1901年の総会で現在のような長方形のコートが採用されました。ドルビー大佐はアワーグラス型コートの推進者でありましたが、1900年から1905年まで南アフリカに駐屯を命じられ英国に不在中の出来事でした。バドミントンという名称についてもいろいろなものがあったようです。インドのプーナ駐屯地のイギリス人は、盛んにこのゲームを楽しんでいたので自分たちで「プーナゲーム」と呼んだそうです。プーナという別のあるいは土着のゲームがあったのではないようです。また、同じインドのサクラ駐屯地ではシャトルを打つ音が太鼓(タムタム)に似ており、シャトルが花のようだからと「タムフラワー」と呼び、それが「タムフルゲーム」と呼ばれるようになりました。やがて、1875年ころから「バドミントン」に落ち着いたようです。何がきっかけとなったのか、あるいは自然に定着したのかは定かではありませんが、バドミントンハウスにちなんだことだけは間違いないようです。
 バドミントンはスポーツであり文化ですから、先人がいろいろと考えたり想像したりして発展させてきました。私たちもせっかく受け継いだものをもっと成長させて、次の世代に遺していく必要があります。それが指導者の責務です。バドミントンが生まれて100年はど経ちました。100年後には果たしてどういう風になっているのか、どういう風にしたいのかということを明確にしながらバドミントンに接していきたいと考えております。

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