芍薬と牡丹と百合の花

 昔,私は学部学生の3,4年生の時に家庭婦人のバドミントンクラブのコーチをしたことがある。東京は杉並区にある,ひまわりバドミントンクラブのコーチである。このクラブの歴史は古く,昭和48年4月の創部であるが,ここのコーチは初代を除いて歴代,早大の部員が引き継いでいる。私は5代目であったが,現在もやはり早大バドミントン部員がコーチをしているようだ。

 私は学部学生の時に,授業でコーチング論だとかスポーツ指導法だとか体育科教育法だとか,スポーツの指導を行うための勉強をしたが,ひまわりクラブでのコーチ経験は何にもまして勉強になったと思っている。そして,部員であるお母さん方には和気あいあいとした雰囲気の中で色々なことを勉強をさせてもらった。今でもよい思い出である。お母さん方は私の母よりも年上の方がほとんどであったが,何しろ熱心であった。とはいっても,殺伐とした雰囲気はみじんもなく,一緒にスポーツをやる喜びに,皆さん,あふれていた。試合で勝つのは2の次であったように思う。

 当時,ひまわりクラブは杉並区の永福体育館で土曜日の午前中に活動をしていた。一方,私は西早稲田というところに住んでいた。そこで,3年生に進級した直後に通い始めたのであるが,最初は高田馬場から山手線に乗って,新宿で京王線に乗り換え,西永福というところで降りて徒歩5分の体育館に通っていた。しかし,貧乏学生だったので,電車代を浮かせるために自転車で通うことに急遽変更をした。所要約1時間であったが雨の日も自転車で通った。そんな様子を見ていたひまわりクラブのあるお母さんが朝御飯をお弁当に詰めて持ってきてくれるようになった。9:00から練習が始まるので少し前に体育館に到着するといつもお弁当が体育館のロビーのベンチの上においてあった。それをおいしく頂いてからいつも練習に参加した。
 練習は,だいたい12時までで,毎回4000円のコーチ料を頂いた。途中からは4500円に上がったが,これは貧乏学生にとってはとてもうれしい金額で大切に使わせていただいた。コーチ料をもらった後,着替えを済ませ,帰ろうとするといつもお昼ご飯に誘ってもらった。駅の近くの喫茶店でいつもランチをご馳走になった。貧乏学生にとっては至福の時であった。それから,早稲田大学まで自転車で戻り2:00からの練習に参加したものだった。

 ひまわりクラブのお母さんには,時々,差し入れと称してウイスキーなども頂いた。ある時は海外旅行のおみやげだといってジョニ黒を頂いた。今でこそ,ジョニ黒は大した値段でもなく,お酒の量販店で無造作に売られているが,当時としてはとても珍しいものであった。確か普通に酒屋で買うと8000円程度はした。それは高級なバドミントンラケットが1本買える値段で,学生風情が簡単に飲める代物ではなかった。
 ジョニ黒をもらってきた夜,それをこたつの上に置いてよく眺めた。瓶を手にとって電球に透かしてみたりもした。そして,どうやって呑もうかと思案した。しかし,飾っておこうという発想は全くなかった。そこで1人で呑むのはもったいないと早大バドミントン部でマネージャーをやっていた同級生で酒好きのFに声をかけたら早速下宿にやってきた。そして,2人で眺めて,どうやって呑もうかということになった。そのまま呑むか,ロックで呑むか,水割りにするかを考えた。そのまま呑めばジョニ黒の味がよくわかって呑んだという気になる。しかし,すぐになくなってしまう。水割りにするとたくさん呑んだ気分になれるが,ジョニ黒の味がわからなくなるのではないかと心配した。ともあれ,今となってはばかばかしいことを色々と考えながら,興味津々に呑んだ思い出がある。しかしながら,味の方はもう忘れてしまった。しかし,その瓶を捨てるのはもったいないと,とっておいた。そして,とっておくだけではもったいないと,その瓶にサントリーレッドを詰めた。そして,時々後輩を呼んで呑ませてあげた。確か,北関東のI県とかいう田舎にある,J総学院とかいうところに勤務しているK君も呑んだ口ではなかろうか。後輩たちはみんな口をそろえて,やはりジョニ黒はおいしいですね。この舌にぴりっとするところがたまりませんねといって喜んでいた。まあ,だいたい人間なんてものはこんなものだろう。バドミントンのラケットで,20000円もする代物でも表面にマジックかなんかを塗って品名がわからないようにしておけば,どれが高くてどれが安いのかは容易に判断できないだろう。

 ひまわりクラブでは毎年,キャプテンとサブキャプテン,マネージャーとサブマネージャが決められ運営されていた。そして,その方々がコーチと相談して色々なことを決めていた。例えば,練習プログラム,ダブルスのペア,その他諸々である。そして,その決定は最終的にはコーチに委ねられていた。頼りない学生のコーチであるが,そのようにしておく方が部の運営がやりやすかったのであろう。何せこちらは若造である。少々のことには目をつむって頂いていたように思う。

 ある時,クラブの中で年齢別に3クラスを設けて,大々的にダブルスの試合をやろうということになった。そして,折角3クラスにわけるのでAクラス,Bクラス,Cクラスとかいった分け方ではなく,クラブの名称からも,花の名前でクラス分けをしようということになった。
 そこでコーチ,すなわち私の登場ということになった。花の名前を3つ考えてくれということで,一任された。わたしは,そのとき,ネーミングに当たって,特徴的で,日本的で,お母さん方のイメージに合った花を考えた。そして3つを決めた。それは年齢別に若い方から,桜,梅,菊であった。我ながらに,なかなかよいグループ分けだと,そのときは思った。しかし,キャプテンがあわてて私の所へこられた。これはまずい,桜は,「姥桜(うばざくら)」に通じる。梅は「梅干し婆(うめぼしばばあ)」に通じる。菊はお葬式になってしまう。とのことであった。私の配慮不足。ごもっとも,ということで,急遽変更。再び無い知恵を絞って,標題の3つを考えたわけである。すなわち,芍薬(しゃくやく)と牡丹(ぼたん)と百合(ゆり)である。なぜかって。そう,立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花,というわけである。自己満足の1発であったが,その評判についてはその後何も聞いていない。

 その節は,他にも配慮を欠いたことが多々ありまして申し訳ありませんでした。二日酔いでお酒のにおいをぷんぷんさせながらお伺いいたしたこともありましたが,いやな顔ひとつなさらず,かわいがっていただきましてありがとうございました。それでは失礼いたします。


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