12月9日(日) 参加することに意義がある

「参加することに意義がある」、このフレーズを小学6年生の息子がよく使います。
とはいっても、積極的な意味で使うのではなく、きわめてネガティブな意味合いを持って使います。

彼はバドミントンをやっています。
もちろん、レクリエーションとしてではなく、チャンピオンシップスポーツとしてやっています。
それでもって、何の間違いか、全国大会にも出場しています。

しかしながら、彼は一生懸命に練習をしません。
試合でも、必死になることがありません。
そして、本人もそのことを堂々と認めています。
私といたしましては、歯がゆい限りです。
これについては、なぜなのかと聞いたことがありますが、疲れるのが嫌いだから、一生懸命になりたくないのだそうです。
もっとがんばったら、もっと勝てるようになるよ、といいますと、そこまでして勝ちたいとは思わないといいます。

で、こんな態度で練習を続けていますと、色々な方から、「しっかり練習しろ!」とか、「ちゃんとやれ!」とか、叱られてしまいます。
で、そのような場面に直面すると、いつもぽつりと口にするのです、この言葉を、「練習は参加することに意義がある」と。

もっとも、彼は小学1年生からバドミントンをやっていますが、確かに、練習には参加し続けています。
とりあえずは、バドミントンをやめずに続けています。
私などは修行が足らないので、もっと一生懸命練習すれば、もっと強くなるんじゃないかと思ったりするものですから、「参加するだけではいけない」と考えてしまいますが、長い目で見れば、確かに、「参加することに意義がある」のかもしれません。

さて、前置きが長くなりましたが、この「参加することに意義がある」というフレーズについてです。
このフレーズは色々な場面で使われますが、実はスポーツの現場、しかもオリンピックの開催中に生まれた格言なのです。

時は1908年、第4回ロンドンオリンピックの時のことです。

ちなみに、近代オリンピックは1896年にギリシアのアテネで第1回大会が開催されましたが、当時のオリンピックは現在のものとはまったく異なり、のんびりしたものでした。
参加国14、競技数8、まだ、メダルはもちろんのこと、表彰式もありませんでした。
競技ものんびりとしており、飛び入り参加もあったようです。
町民体育大会のようなものだったのでしょう。
しかしながら、オリンピックも2回、3回、4回と回を重ねるにしたがって、競技会、すなわち、勝ち負けを競う大会に変わっていきました。

そこで、第4回ロンドン大会ということです。
この大会では参加国同士の競争が激化していきました。
特に、開催国の英国と、英国の分家ともいうべき米国との対立が熾烈を極めました。

この両国は歴史的に、そして、今でもそうですが、国際的に何か紛争があるとタッグを組んで力を合わせます。
例えば、両世界大戦でも、湾岸戦争でも、アフガン戦争でも、何かあると一番にこの両国が手を結びます。
もっとも、米国のルーツは英国なので当然といえば当然ですが、何もないときには、結構、英国人は米国人のことを、そして、米国人は英国人のことを馬鹿にしたりします。
本家と分家の関係、親会社と子会社の関係をイメージすればわかりやすいかもしれません。

それで、1908年のロンドンオリンピックでの激突です。
それまでは、政治の世界でも、経済の世界でも、軍事の世界でも、スポーツの世界でも、英国の圧倒的優位が続いていましたが、この頃から、米国の台頭が顕著になってきました。
これをおもしろく思わなかった英国人の感情と、その感情を察知した米国人の反感がオリンピックという舞台で爆発したようです。
英国人審判による米国選手に対する不利な判定が続きました。
それに対する米国選手団の猛抗議などが度重なりました。

これを見かねた米国から選手団に帯同していたペンシルベニア大司教であったエチュルバート・タルボットが1908年7月19日、ロンドンのセントポール寺院で行われた日曜日のミサに各国の選手や役員を招待しました。
そして、そこで、オリンピックの将来を憂慮したタルボット大司教は、全員を前に、" The most important thing in the Olympic Games is not to win but to take part! "「オリンピックで最も重要なことは、勝利することより、むしろ、参加した、ということであろう」と述べました。
しかしながら、その後も、両国の衝突は続きました。
陸上400m走では英国審判団の判定を不服とし、米国選手団が競技をボイコットするというようなことも起こってしまいました。

タルボット大司教による説教から5日後の7月24日、英国政府主催のレセプションが各国の役員を招いて開催されました。
その席で、オリンピックの未来を心配したIOC会長でオリンピックの父とも呼ばれるフランス人ピエール・ド・クーベルタン男爵がタルボット大司教の説教を引用しながら次のような演説を行いました。

"The most important thing in the Olympic Games is not to win but to take part, just as the most important thing in life is not the triumph but the struggle. The essential thing is not to have conquered but to have fought well."

「オリンピックで最も重要なことは、勝つことではなく、参加した、ということである。これは、人生において最も重要なことが、成功することではなく、努力した、ということと同様である。本質的なことは勝ったかどうかにではなく、よく戦ったかどうかにある。」

やがて、このクーベルタン男爵の演説の内容が世界中に広まり、色々な場面で使われる「参加することに意義がある」というフレーズが生まれたのです。

きっと、クーベルタン男爵は努力の大切さをスポーツマンに伝えたかったのだと思います。

と、この話を小学6年生の息子にしましたところ、「うーん、深いい話だ!」と、唸っておりましたが、さてさて、どこまで伝わったことやら・・・

ということで、本日の練習に今から向かいます。

11月19日(月) 早稲田大学バドミントン部創部60周年記念式典

 私の母校である早稲田大学のバドミントン部が今年で創部60周年を迎えました。
 そこで、その記念式典が東京駅にほど近い日本工業倶楽部のホールで去る11月17日に執り行われました。
 ということで、折角なので出席してきました。
 
 思い起こせば、今から30年前、創部30周年の記念式典の時には、私は現役の4年生で主将を務めておりました。
 そのときの式典は早稲田にある大隈会館で行われましたが、主将として壇上で挨拶したことは今でも記憶に残っております。
 さらに、今は亡き日本バドミントン界の至宝である湯木博江さんも後に夫となる新沼謙治さんと共に来賓として参加され式を盛り上げてくれました。
 その年、すなわち創部30周年の年は早稲田大学創立100周年の年でもあり、早稲田界隈は異様な雰囲気に包まれていました。
 そういった空気の中、全日本学生選手権、いわゆるインカレのシングルスで早稲田大学としては史上初めての個人タイトルを奪取することができました。
 
 今回はそのときの決勝を競い合った日本体育大学OBで八代東高校教諭の権藤浩二氏が来賓として駆けつけてくれました。
 権藤氏は八代東高校の監督として多くの名選手を育ててこられました。
 そして、それらの選手を早稲田大学に送り込んでくれたということでお招きした次第です。
 権藤氏と旧交を温めたことはいうまでもありません。
 
 今年も早稲田大学バドミントン部はインカレで優秀な成績を上げてくれました。
 女子シングルスでは玉木絵里子が2連覇を達成いたしました。
 ちなみに、玉木とインカレの決勝を2年連続で戦ったのが東海学院大学の山本紗椰で、私が担当しているクラスの学生でもあります。
 また、男子ダブルスでも古賀・齋藤組が1年生ながら優勝を果たしました。
 これらの部員も全員式典に参加しましたが、みんな礼儀正しく人間的にも立派な連中でした。

 ともあれ、早稲田大学バドミントン部よ永遠なれ、ということで本日は失礼いたします。

11月5日(月) ボーフォート公爵家

標題のボーフォート公爵家とは、あのバドミントン競技の発祥の地ともなったバドミントンの地を所有する貴族のことで、その当主はバドミントンハウスの主でもあります。

バドミントンハウス(蘭撮影)

バドミントンハウスに関わる詳しい情報は ここ をクリック

このボーフォート公爵家は、1682年、時の国王チャールズ二世によって叙爵されたヘンリー・サマーセットに始まりますが、イングランド公爵第5位の家柄です。

初代ボーフォート公爵
ヘンリー・サマーセット

1682年にボーフォート公爵に叙されたサマーセット家ですが、それ以前は、ウスター侯爵とウスター伯爵の2つの爵位を持っていました。
が、それに加えて公爵位を手に入れたわけです。

さて、この初代公爵ヘンリー・サマーセットが若き日のイングランドの状況はといったら、清教徒革命のまっただ中で、国内は内戦状態でした。
しかしながら、彼が20歳の時(1649年)、国王チャールズ一世が処刑され王政が廃止されました。
そこで、内戦状態が一段落し、軍人クロムウエルによる共和制時代を迎えましたが、クロムウエルの没後、共和制も破綻し王政復古となりました。
このときにフランスに亡命していたチャールズ二世をイングランドに迎入れて王政復古を実現したメンバーの一人がヘンリー・サマーセットということで公爵に叙されたのです。

さて、バドミントン競技のルーツが1800年代半ば頃にバドミントンハウスで遊ばれていたバトルドー・アンド・シャトルコックであることはいうまでもありません。

バドミントンハウスの大広間での当時の様子の再現 英国BBC作成

このときの当主はヘンリー・サマーセットから数えて8代目のヘンリー・フィッツロイ・サマーセット(1824年~1899年)で、色々なスポーツの誕生に関わったことからスポーツ公爵とも呼ばれていました。
ただし、この公爵は何人もの愛人を持っていたことでも知られています。
しかしながら、ジョージアナ・シャーロットという賢夫人のおかげでスキャンダルになることはなかったそうです。

第8代ボーフォート公爵
ヘンリー・フィッツロイ・サマーセット

現在のボーフォート公爵はデービッド・サマーセット公が第11代を継いでいます。
現在84歳(1928年2月23日生まれ)のご高齢ですがお元気の様子です。

第11代 現ボーフォート公爵
デービッド・サマーセット

ということで、失礼いたします。

10月18日(木) YAHOO百科事典

 久しぶりの更新です。

 さて、このたび、日本協会の依頼で、
YAHOO百科事典のバドミントンの歴史の項目を担当いたしました。
 それは ここ です。

 このYAHOO百科事典は小学館が編集を担当しているということで、今回は原稿料が出ました。
 これまで、同様の仕事を日本協会から依頼されてやりましたが、いつもボランティアでした。
 が、さすがに、小学館は優良企業です。
 ということで、原稿料は子どものバドミントンの遠征費に消えてしまいました。


 
これに関連して、バドミントンをやっている長男が10月13日に伊勢市で開催された、全国小学生選手権の予選会も兼ねている、東海小学生大会の6年以下シングルスで、何の間違いか、優勝してしまいました。
 とはいっても、東海地区にはU13のナショナルメンバーが2人いて、この子達は予選免除で全国大会に出られるので、この大会には出ませんでした。
 だから、おまけのような優勝で、真のチャンピオンではありません。
 しかしながら、本人はかなりうれしかったようで、バドミントンもなかなかおもしろくなってきたゾ、とは言っています。
 
 ですが、相変わらずのことで申し訳ありません、練習はこれまでどおりチャランポランです。
 だから、「ばかたれ、しっかりやらんか」と、注意すると、「練習は参加することに意義がある」
と返してきます。
 
「ああ」言えば、「こお」言います。
 
口だけは、達者です、が、おもしろいことを言うので、返す言葉を見つけるのに苦労します。
 バドミントンと一緒で、攻勢をかけられたら切り返さなければなりません。
 そこで、「その考えには異議あり
と切り返してみます。
 
すると、「その異議却下、本日閉廷」ときます。
 まあ、疲れます。 
 
 8月に熊本で開催された試合に行ったときも、私の旧知の方で日本協会の幹部役員をやっている人に声をかけられ、「あららぎ君、どお、がんばってるぅ?」といわれ、「はい、でも、初めて飛行機にも乗ったし、初めてグリーンマットにも乗ったし、ついでに調子にも乗って2回も勝ったからも、もおいいです!」と、いっておりました。
(おいおい、こら、生意気なことを言っているんじゃない、もっと謙虚に、子どもらしく、もっともっと上を目指しています、てなことが、嘘でも、いえないのかい?)

 

 でも、まあ、それはそれで、いっかっ、と、思っています。
 まだまだ6年生ですので、もう少しやりたいな、もっともっとやれるぞー! ぐらいで止めておく方が、後の楽しみも増えますし、なんといっても、バドミントンに押しつぶされるよりも、バドミントンを笑って吹き飛ばすぐらいの方がかっこいいと思うからです。
 
 とはいっても、県の代表になると大変です(国の代表などは想像を絶する大変さでしょう)。
 東海地区をはじめ全国規模の色々な大会に出なければなりません(いやいや、出させてもらうのです)。
 また、それに備えるための強化練習や強化合宿にも参加しなければなりません(いやいや、参加させてもらうのです)。

 
遠征練習試合も目白押しです。
 
したがって、その世界でやっていこうと思うならば、ちゃんとした覚悟を持って参戦しなければなりません。
 
が、これって、とってもつらい世界なのでは?、と、思います。
 うん、つらい世界です!
 これは、経験した人にしかわからない世界かも?
 でも、経験がなくても、想像力に長けた人ならば、子どもの気持ちにはなれるかも?
 

 
ですから、このような世界に子どもを送ろうとするならば、子どもの心と身体のケアをしながらも、バドミントン、スポーツ、そして、人生に真っ向から向き合い、それに凌駕されることなくこれを凌駕し、さらに、このモンスターを楽しむ方法を、親(指導者)として、子どもに伝授する哲学が必要になるのかな、と、思っている次第です。

 他方、親も大変です。
 遠征にはいつもくっついていかなければなりませんし、その費用も馬鹿になりません。 

 
別に勝たなくてもいいや、と、思っていても、その場(試合会場、練習会場)に行くと、やっぱり、負けるよりは勝ちたいと思うのが心情ですから、疲れます(まだまだ修行が足らない、子どもたちは私のことをチキンと言っています)。
 
 
ともあれ、子ども達とのバドミントンを通じて、スポーツとは何か、スポーツと、どうやって関わっていけばいいのか、ということを考えていきたいと思っています。

1月1日(日) 辰年

 あけましておめでとうございます。
 いよいよ、辰年の始まりです。
 本年もよろしくお願いいたします。

 さて、本日は元旦ということで、恒例の元日登山に行って参りました。
 今回のメンバーは、中学3年生の女子1名、中学1年生の女子1名、小学5年生の男子1名、並びに私と女房の計5名でした。
 今回目指した山は、昨年と同様で、垂井町にあって、あの関ヶ原の合戦の舞台にもなった南宮山でした。
 
 早朝4:50に羽島市の自宅を自家用車で出発し、5:40前に南宮山の登山口に到着しました。
 そこで、登山の準備を整え、今日は標高404mの展望台を目指しました。

こんな感じで登り始めました。

昨年は雪が深く、登山道には人影が全くなく、踏み後もない状態でしたが、今年は雪も少なく頂上には十数人の人が初日の出を拝みに登頂しておられました。
しかしながら、登山道は真っ暗闇で、その中を懐中電灯の光を頼りに、雪に埋もれながら登っていきました。
雪道には、動物たちの足跡が散在し、自然を感じながら登っていきました。

こんな感じで登っていきました。
約1時間で登頂しました。

 天気予報では、曇りでしたが、天は我々にご褒美をくれました。
 完璧な初日の出ではありませんでしたが、日の出を仰ぐことが出来ました。
 どうもありがとうございました。
 
 昨年は、中学3年生の長女が、岐阜県中体連のシングルスで、運良く優勝しました。
 続く
東海大会でも優勝、そして、全国大会出場を狙いましたが、愛知県3位の選手に2回戦で敗退し、夢は叶いませんでした。
 でも、ここまでよく頑張ったと感慨深いものがありました。
 また、岐阜県大会の準決勝で勝った相手が
東海大会で優勝してくれたことから、まだまだやれるという確信も持つことが出来ました。


岐阜県中体連シングルス準決勝 2ゲーム 20対20

 中学1年生の次女も、長女との練習によって腕を上げています。
 考えてみれば、県チャンピオンの姉を相手にいつも練習しているわけで、練習環境としては極めて恵まれていると言わざるを得ません。
 小学5年生の長男も、シングルスで、
東海大会に出ることが出来ました。
 1昨年は1回戦で涙をのみましたが、昨年は1回戦を突破しました。

 ともあれ、今年も、こつこつ努力を積み重ねていきたいと思っています。
 本年もよろしくお願いいたします。 
 

日の出前
2012年の初日の出


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