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徒然なるままに





3月26日(水) アキレス腱断裂
 
 昭和59年の本日というから、もう19年も前のことになる。この日に、私は、不注意にもアキレス腱を断裂してしまった。
 思い出したくもないが、今日は記念日である。
 だから、今日はおいしいお酒を頂いている。といっても今日に限ったことではないが。

 あの頃は、バドミントンの練習に飢えていた。シャトルコックを打ちたくてうずうずしていた。その時、私は、大学を出たてのバリバリであったが、バドミントンの練習をするところが、岐阜には、本当になかった。だから、いつも一人でトレーニングばかりしていたように思う。長距離走をしたり、ウエイトトレーニングをしたり、サーキットトレーニングをしたり、フットワークをしたり・・・・、俺は陸上競技の選手なのか?と、自問自答したりしていた。
 ところが、この季節は春休みということで、自由にあちこちを飛び回ることができた。大学バドミントン界でもこの季節は、シーズン前のもっとも練習できる時とばかりに、各大学が揃って強化合宿などをおこなう。そこで、私もそれに便乗とばかりに積極的に大学生に混じって練習をしていた。19年前のこの時期に、ホンダのシティーを運転し、東京に出かけ、都の西北に位置する我が母校、W大学の5泊6日の合宿に参加した。この時、当時、猛練習では有名であったW大の練習を完璧にこなした。そして、岐阜に戻り1泊の後、またまた、愛車のシティーを運転し、今度は関西の雄、K大学の6泊7日の合宿に参加した。これは、K大学バドミントン部監督のW氏との親交から受け入れてもらったものである。これもハードトレーニングでは全国的に有名な、K大学の練習を学生と同じ大部屋に寝泊まりし、完璧にこなしたつもりであったが・・・・。K大学の合宿最終日、忘れもしない、K大学記念会館。このゲームを最後に合宿を打ち上げ、岐阜に帰ろうとはじめたシングルスにおいて。相手は、現在、此花学院高校バドミントン部で監督をやっているT君であった。1ゲーム目を私がとり、2ゲーム目も13−6ぐらいで私がリードしているときであった。
 あと1点でマッチポイントを握るラリーで私の左奥にクリアーが飛んできた。そこで、ほぼ反射的にジャンプし、スマッシュを打った。そして、その後、左足で着地をした瞬間に、バーンという音と同時に左足に衝撃を感じた。私は、一瞬、これがアキレス腱断裂というものかと思った。そんなことを考えながら、床に倒れたところ、K大の1年生のSくんが私の所に一目散に走ってきてくれた。だれに行けといわれたわけではなく。私は、この人はなんと優しい人なのかと思った。そして、感謝した。が、私は油断をしていた。S君は私を腹這いにさせた。そして、おもむろに、私の左足首を持ち上げた。そこで、な、な、なんと、私のアキレス腱を伸ばしはじめたのである。私は、一瞬、お、お、おおおお・・・・、と叫んだ、が、もとよりSくんの怪力に抗す力は残されてはいなかった。そこで、思わず、私はうつ伏せの状態から身をよじり、S君に向かって、大声で叫んだ。アキレス腱はあるかー、と。Sくんは、一瞬、何のことか、判断が尽きかねた様子で力を振り絞ってアキレス腱を伸ばし続けたが、ふと我に返った。そして、私のアキレス腱を触ってくれた。そして、答えてくれた。途中でアキレス腱がなくなっています、と。S君は私の足がつったものとばかり思い、伸ばそうとしてくれたのである。なんと優しいS君であることか。もちろん、これまた優しい私がS君を怒ったなどということは決してありません。今でもその優しさには感謝をしています。
 その夜、岐阜県協会のO氏とT氏が、岐阜県バドミントン界では超有名人であるB氏から借りた高級車を運転し、東大阪市のK大学まで迎えに来てくれた。そして、私はO氏が運転する高級車に乗り、そして、T氏が私の愛車を運転し、無事岐阜に帰ることができた。

 その節は色々とお世話になりました。この場をお借りいたしまして、関係各位には深くお礼を申し上げます。

 そのとき、私の愛車シティーはマニュアル車であった。左足が不自由の身ではクラッチが踏みにくいということで、オートマチック車に買い換えた。ホンダのインテグラにである。独身時代にはこうも簡単に車を乗り換えることができたのである。いまでは、とうてい無理である。

 アキレス腱を切る前兆、今から考えるとこれは確かにあった。しかし、切った経験がなかったので見逃してしまった。
 大学生シャトラーの皆さん、アキレス腱は大事にしましょう。切れる前には、その前兆があります。しかし、それを恐れていてはハードトレーニングはできませんが・・・。難しいところです。これは、切った人にしかわかりません。もったいぶって、ごめん。ま、これをスポーツ科学で説明しようとしても、所詮無理です。スポーツ科学なんてものは、こんなものだと思います。


 お、これが今日の大きな教訓か。


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3月20日(木) 卒業式
 
 今日は、東海女子大学の卒業式があった。卒業生の皆さんには、心から、「おめでとう」と申し上げたい。色々な夢を持ちながら、本学に入学し、艱難辛苦、鋭意努力の末の本日の佳き日、ご家族の皆様をはじめご関係各位のお喜びも、いかばかりのものかと推測いたします。本当におめでとう!

 式の様子はごらんになりたい方は、本学渉外部作成のこちらのページへどうぞ→ ここをクリック

 それにしても、いつも思うが、卒業式や入学式における同窓会会長のスピーチには、いつも感銘を受ける。すばらしいスピーチである。本心、いつもすてきなスピーチをしてくれる。

 やはり、同窓会会長には、自分の後輩に対する思いやりの気持ちが満ちあふれているのだろう。そして、その玉のような言葉は、自分の学生時代の姿に目の前にいる後輩卒業生の姿をオーバーラップさせることによって、はじめて生まれるものなのであろう。
 今日は、感謝をするということに関して、我が同窓会会長は、自分の友達が昨年の同窓会総会の際に恩師に発した言葉を借りて述べられた。ま、一言では説明できないが、大学卒業の時に感じた恩師に対する感謝の気持ち、結婚するときに感じた両親に対する感謝の気持ちを、親となった自分が日々感じている感謝の気持ちに対比させながら、感謝の気持ちのすばらしさ、大切さについて、まさに巣立ちをしようとする後輩にメッセージを送ってくれた。本当に実感がこもっていてすばらしかった。聞いている卒業生の目も、そのときは特に、きらきらと輝いていた。

 他方、学長特別表彰というのもあっって、多くの功労者が表彰された。もちろんスポーツ功労者も表彰された。これは、スポーツ関係者としては本当にうれしいことである。なぜならば、なにかしらの大会で優勝すると、「おめでとう、よく頑張ったね」、こんなことは誰でも言ってくれる。
 しかしね、そこに至るまでの大変さ、厳しさ、つらさにはそんな言葉では済ますことできないものがある。今回の表彰はそんな言葉で表すことができないものを皆が認めてくれたということだと思う。

 運動選手は勉強しないね、とあっさり言われることがある。
 運動部員に告ぐ。こんなことを言われてはだめです。歯をくいしばってがんばれ!
 だけどね、君たちはがんばっていると思う。
 最近の学生は・・・・・と言われるご時世にあって(といっても、こんなことは大昔から言われ続けてきたことではあるが)、
 君たちはすばらしい。少なくとも本学の運動部員は。
 
 バドミントン部の主将が、全日本学生選手権女子団体戦の部準優勝の功績をたたえられて表彰された。
 ホッケー部の5選手が、全日本学生選手権3連覇、釜山アジア大会銅メダルなどの功績をたたえられて表彰された。
 ソフトボール部のエースピッチャーが全日本学生選手権で準優勝の功績をたたえられて表彰された。

 ともあれ、東海女子大学卒業生のご健勝を心からお祈り申し上げます。

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3月13日(木) 鼻高コース
 
 鼻高コースとは、かの有名な金華山の、数ある登山道の中の一つで、私のお気に入りのコースのことである。 
 金華山、この山については、ここをクリックすると詳しいことがわかるが、あの有名な斉藤道三や織田信長が城主となったこともある岐阜城を頂上に頂く名山である。
 
 金華山には非常に多くの登山道がある。例えば、岐阜公園側(一般的にはこちらが正面と呼ばれ、ロープウエーも設置されているが)からは、七曲がり登山道、百曲がり登山道、瞑想の小道、馬の背登山道などがある。また、R156の岩戸トンネルの西側から登っていく路として、東坂ハイキングコースがある。また、頂上を目指すコースではないが、金華山の中腹を横切るように歩くコースとして、大参道ハイキングコース、達目ハイキングコース、唐釜ハイキングコース、大釜ハイキングコースなどがある。さらにその他のバリエーションコースもある。
 それぞれに、魅力があるコースであるが、頂上を目指すコースの代表格の瞑想の小道は、別名水の手路と呼ばれ途中に沢を何度も横切る気持ちのいいコースである。夏の暑い時期には特におすすめのコースである。しかしここの難点はひとけが多いことである。瞑想の小道とは言うものの、人とよくすれ違うので挨拶をしょっちゅうしていなければならない。わたしなどは、山を登りながら、あるいは自転車を漕ぎながら、瞑想し、空想に耽り、その中から講義の内容や、研究の進め方についてアイデアを浮かべるのを常にしている。したがって、ひとけが多いと、よいアイデアが浮かびそうになっても、「こんにちは」と声を掛け合うと、あれ、今何を考えてたっけということになって、うまくないのである。他のコースも揃って人気のコースで人の気配が多いのである。
 
 それに比べて、この鼻高コースはひとけが薄い。かといって、道が悪いとか面白みがないとかといったことは決してなく、楽しめる。たぶん、あまり人に知られていないのと、登山口がわかりにくいためにひとけが薄いのではないかと思われる。
 本当は、あまりおしえたくはないのですが、今日は、ここだけの話ということで特別におしえてしまいます。
 R156のバイパスを東海女子大学方面から岩戸トンネル方面に向かう。そして、トンネルの直前にじゅうじゅう亭という居酒屋か焼き肉やかわからないお店の黄色い看板が見えてきたら、左折をしそのままR156の下をくぐって北へでる。狭い道が続くが、気にせずにどんどん突進する。まあ、300〜400mも行くとそこに、妙見宮というお宮さんがある。そこの前にある駐車場、といってもただの空き地であるが、そこに車を止める。そして登山の開始である。
 
 民家の左側に林道がはじまるが、そこを進む。200mも行くと、西山尾根へという看板が見えてくる。そうしたらそこを右に曲がり山頂を目指すのである。まずは金華山から尾根伝いに続く西山を目指して、淡々とした路を瞑想しながら登る。ここで人に会うことは滅多にないと思う。そして、稜線にでたら進路を左に取る。ここで進路を右に取ると本当に西山に行ってしまう。行ってしまうといっても、西山も楽しい山である。何が楽しいかはわからないが、ひとけのない路を淡々と行くからであるが、そのまま淡々と西山を越えてまっすぐ進んでしまうと日野の農協あたりに降りることとなる。
 話を戻して、金華山の山頂に向かうのであるが、右に長良川と岐阜市最高峰の百々ヶ峰を見ながら、アップダウンを何回か繰り返しながら進むと、最後には瞑想の小道と合流し、あと一息で頂上ということにあいなる。
 頂上にはもちろん岐阜城が、皆さんの到着を待っています。入場料大人200円をはらって、天守閣の中にはいるとそこは資料館になっています。また、最上階には展望台もあり、360度の大パノラマを満喫することができます。
 今日は、出血大奉仕ということで、あなたのパソコンを使って、その大パノラマを披露いたしましょう。ここをクリック

 堪能して頂けましたでしょうか?それでは、皆さん、またこんど!

 
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3月11日(火) 鼻骨骨折
 
 私が大学生の時、ク**君という1年後輩がいた。このク**君は、高校までは野球部の選手で、大学に入ってからバドミントンをはじめた人で、北海道は紋別出身の人だった。しかし、まれにみる運動神経と、研究心と、努力によって、上級生になってからは我が部のレギュラーを勝ち取り、なんと、関東大学1部リーグの公式戦にも出場してしまった。
 
 さて、本題に入ろう、私が大学3年生の時、その日も過酷なバドミントンの練習が予定されていた。もちろん、監督、コーチおよび幹部によって綿密に計画された練習である。ところが、その日は、何となくその場の雰囲気で、練習をやめてソフトボールをやろうということになってしまった。計画された練習をやめる大きな要因としては、その日は、監督も、コーチも来ないことがわかったことがあげられるが。
 
 1年生が体育局の事務所へ行って、手続きをし、用具一式を借りてきた。そして、いよいよ、プレーボールということになった。ここで活躍したのは前出のク**君である。高校時代は甲子園を目指していたという位なので、バドミントン部のへっぽこソフトボールではものが違う。それこそ攻守にわたり大活躍を見せた。守備はレフトで超ファインプレーの連続であった。
 
 当然、ク**君は気をよくして、ハッスルプレーを意識する。そして、何回の攻撃かは忘れたが、あるバッターがレフトへ大きなあたりをとばした。ク**君は、これこそ見せ場とばかりに後方へ全力疾走した。まさに、超ファインプレーと思われた瞬間。ク**君が地面に倒れた。そして、起きあがろうという気配も全く見せない。すわ、何事かと、部員全員がク**君の所に駆け寄った。するとそこには低鉄棒が設置されていた。そうなんです。ク**君はちょうど顔の高さにあった鉄棒に顔を直撃させてしまったのです。これは、痛い。見る見るうちに顔が腫れてきた。そうして、救急車で東京女子医大病院に搬送された。しかし、幸いにも鼻骨骨折だけですんだ(といってはク**君には気の毒ではあるが)、命に別状はなかった。
 
 その後、全員集合し、4年生の先輩から、お達しがあった。ソフトボールをやっていてク**が怪我をしていたことは、決して、監督、コーチの耳には入れてはならない、と。だから、今でも私はそのことを監督やコーチにいってはいない。
 
 後日、コーチが練習にやってきて、ク**はどうして怪我をしたのかと聞いた。私は思わず言葉に詰まった。そうしたところ4年生の先輩が横からでてきた。そして、言った。自分が素振りをしていて、不注意にもク**の鼻をラケットで打ってしまいました、と。その後に、その先輩はコーチに向かってさらに続けた。さすがに、河崎のラケットはじょうぶですね。骨が折れても、ラケットはおれなかったんですから、と。そのコーチは一瞬、ニヤッとした。そのコーチは河崎ラケットというラケットメーカーで課長をしていたからだ。
 
 しかし、我がチームのコーチは、あの先輩の言葉を本当に信じたのだろうか。今でも疑問ではある。


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3月5日(水) 木曽の御嶽山
 
 2月の後半には、めっきりと春めいて、このまま暖かくなるのではないかと思っていたら、昨日、本日とめっきり寒くなり、一気に冬へ逆戻りをしました。で、今日も自転車通勤でしたが、こんな空気が澄んだ日には、鈴鹿山脈、養老山地、伊吹山地、両白山地、中央アルプスなど、三方の山々がぐっと近くに見えてきます。こんな景色を見ながら、木曽川の堤防を疾走するのは何とも快感でたまりません。

 とりわけ、御嶽山は白銀の威容でぐっとせまって参りました。よろしかったら→ここをクリックして下さい

 ところで、御嶽山は飛騨地方と木曽地方の境にあるのに何で木曽の御嶽山というのでしょうかね。また、飛騨地方と加賀地方の境にある白山連峰のことも何で加賀白山というのでしょうね。どちらの山も、飛騨側から見て、ずいぶん立派な山なのに、そして、ちゃんと登山口もあるのに。
 また、穂高連峰の奥穂、前穂、北穂、西穂という呼び方も、信州側から見てのことで、飛騨側から見れば、自ずから呼び名も違ってこようというものです。

 飛騨地方の人、なんかいいたいことはありませんか。

 ま、飛騨の人にとっては、乗鞍岳や笠が岳の方が、おらが山という感じなのかもしれません。
 でも、高山市内から見る、乗鞍岳、笠が岳は本当にきれいなんです。

 本日はよけいなことを失礼いたしました。それでは、また。

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3月4日(火) 電報
 

 大学生の時、確か3年生に進級する直前の春休みのことだった。その日はうららかな春の日で、大学もバドミントンの練習も休みの日だった。だいたいこんな日は、ひねもす昼寝を決め込むのが常であったのだが、その日も下宿2階の四畳半一間の傾いた部屋(家が本当に傾いていて、冷たいビールをついだコップなどを飯台の上に置いているとコップが低い方へ滑り落ちて行くほど)でうつらつらと舟を漕いでいた。と、一階の玄関の引き戸が開く音ががらがらとした。そして、あららぎさ〜ん電報ですよ〜、という声がした。
 
 
今は携帯電話が普及していて、用事があればそれで事足りる。したがって、電報というと冠婚葬祭の時に利用するぐらいのものである。が、二十数年前に私が学生だった頃には、携帯電話などなかった。また、下宿に電話を引いている学生も数少なかった。そこで、電報が通信手段として利用されていた。ただし、それは急を要する場合にほぼ限定され、例えば、「ハハキトクスグカエレ.チチ」といった具合に使われていた。
 
 さて話を戻そう。舟を下りた私は昼寝から覚めたばかりの頭でボーとしていたが、状況の深刻さを認識し我に返った。そして脱兎のごとく階下へ駆け下り、郵便屋さんから電報を受け取ろうとした、ら、印鑑をお願いしますと郵便屋さんにいわれ、脱兎のごとく階上に駆け上がり、印鑑を持って降りてきた。そして、ふるえる手で電報を受け取った。だいたい、こんな場合の電報というのは何か悪いことがあった場合に決まっているからである。
 
 勇気を奮って、おみくじのように畳んである電報を開いた。そうしたら、「シキュウデンワコウ.フクイ.03-***-****」と書いてあったのである。それは、当時わたしが所属していた大学バドミントン部の大先輩、福井正康氏からの電報であったのだ。ちなみに、福井先輩は、日本の女子チームがユーバー杯(バドミントンの国対抗女子世界選手権、テニスのフェデレーションカップみたいなもの)で初優勝をしたときのコーチで、日本のバドミントンの発展に貢献された先達である。私はあわてて十円玉をいくつかポケットに押し込み、サンダルをつっかけて玄関を飛び出した。そして、公衆電話へと、またまた、脱兎のごとく走った。そして、指定された電話番号にかけた。交換の女性がでて、河崎ラケットですと告げた。そう、電話先は福井先輩の勤務先で福井先輩はそこで部長をされていた。ちなみに社長も当時私が所属していたバドミントン部のOBで、河崎一幸先輩であった。
 そこで、はじめて、福井先輩と私の間にコミュニケーションが取れたのである。「福井先輩、電報ありがとうございました。」と私がいった。「やあ、連絡が取れてよかったよ。*月**日と*月**日は、必ず空けておいといてくれよ。小島が君に指導してやってもいいといってくれたから。」と福井先輩がいわれた。つまりこういうことだ。小島とは、あの全日本のシングルスを8回も制し、全英選手権のシングルスでも三位に入賞したことがあるバドミントン界では伝説の人と呼ばれる小島一平さんのことである。そして、その人に私が胸を貸してもらえるように福井先輩が頼んでくれたということなのである。空けとくようにといわれた日に練習場へ行くというのである。
 
 ちなみに、この小島一平さんであるが、私が十年程前に英国に留学し、ウインブルドンバドミントンクラブに所属したときにも、英国のオールドバドミントンファンにはよくきかれた日本人名である。よく聞かれた、「コジマは元気か。コジマは今どうしているか」と。コジマさんが現役の頃、日本の女子も全盛期で全英選手権のシングルスやダブルスで優勝を飾る選手もたくさんいたが、やはり英国における人気ではコジマファンが一番多かったそうである。そのプレースタイルや、身長160cmにも満たないにもかかわらず、ゴムまりのようにコートを飛び回り、アクロバティックに大男たちをやっつける姿が印象的だったそうである。英国で友人になった一人にピーター・ガードナーという大学教師がいる。彼はジュニアの時には、バドミントンの世界ではかなり鳴らしたそうであるが、全英選手権では全盛期のコジマさんのプレーに魅了された1人だそうだ。中でも、コジマさんが全英選手権の準決勝で、あのインドネシアの至宝、ルディー・ハルトノトと対戦したときのことは昨日のことのように思い出されるといっていた。
 ピーターのいうには、そのときコジマは、全英選手権8回の優勝を誇る全盛期のルディーを相手に回して、一歩も引けを取らなかったそうである。手に汗握るラリー、観客が息をのむプレーが続けられたそうである。その試合、その息詰まる熱戦ではコジマが先にマッチポイントを握ったそうだ。そして、最後のラリー(と思われた)でコジマがルディーの放ったショットをアウトと確信して見逃した。そして、思わずガッツポーズをとろうとしたとき、ラインズマンがラインを指さし、インと告げたそうでだ。ピーターは目を疑ったといっていた。あれはだれがどう見てもアウトで、コジマの勝ちであったといっていた。しかしながら、ジャジは覆るはずもなく、コジマはラケットを床にたたきつけそのラケットはおれたそうだ。その後、緊張の糸が切れたコジマはルディーに逆転を許したそうだ。
 野球でも長島ボールというものがあるそうだ。つまり、アンパイアが、一瞬ストライクだと思った投球でも、長島選手がぐっと身体を引いて見逃すと、思わず、ボールといってしまう、そんなジャッジのことである。ハルトノインがあっても不思議はない。
 
 話を戻そう。福井先輩はそんな名選手の指導が受けられるようにと、旧知の仲を利用して接触してくれたのである。ありがたい話で身体がふるえたことが昨日のことのように思い出される。また、電報を打ってくるとは粋な方法。一瞬心臓は固まりましたが。
 福井先輩、その後ご無沙汰をいたしております。お元気でしょうか。それでは失礼いたします。

 今日は、何となくしんみりした話になってしまいました。それでは、またの機会に。

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2月28日(金) 松竹梅
 

 本当に時がたつのははやいもので、今日で2月も終わりです。東海女子大学の正面玄関前の植え込みも梅が満開となり、とてもよい塩梅(あんばい)になってきました。
 ここをクリックしてみて下さい。→http://www.tokaijoshi-u.ac.jp/~araragi/syoutikubai.jpg
 ちなみに、塩梅という言葉の語源ですが、昔は今みたいに化学調味料などがありませんでした。そこで、塩や梅(梅酢)が重要な調味料となっていました。で、そのことから料理の味を調えることを「塩梅(えんばい)と言っていたそうです。ところが、物事をほどよく排列する、処理するという意味で「按排(あんばい)」ということばがあります。これとの混同から、塩梅=えんばい=あんばいとなったそうです。
 さて、上記の玄関前の植え込みですが、梅の横に松が植えてあり、その根本に竹が植えてあります。つまり、松竹梅ということで縁起を担いでいるのであります。これから、3月20日には卒業式が、4月8日には入学式が本学講堂においておこなわれます。卒業生にも新入生にも心からおめでとうと申し上げます。それぞれにがんばって下さい。
 OGの皆さんには植え込みの写真、懐かしんでもらえたでしょうか。いつになく今日はまじめな話でした。それでは皆さんごきげんよう。
 
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2月26日(水) 新居
 
 新居といっても私のではない。
 北関東にある、隣のI県やT県の住民から、ド田舎と呼ばれているG県に棲息するYさん。

 ようやく完成しましたね!

 内輪の話で失礼いたしました。YさんとはT女子大学バドミントン部のOGで私の教え子である。学生時代にはインカレのシングルスでベスト8に入ったこともあるバドミントンの達人である。その北関東でド田舎と近隣の県民に呼ばれているG県に棲息しているYさんが、なんと、この日本の中心に位置するG県の、しかも、その玄関口にあたる、新幹線の駅もあるH市の、さらに、小宅から徒歩10分のところに嫁いでくることになったのである。またまた、そのお相手が、なんと、M君なのである。M君は、インカレのダブルスで3位に入賞したこともある、これまたバドミントンの達人なのである。M君は、これ以外にも、現在バドミントンマガジンのコーチ学講座に連載を執筆中のT女子大学で非常勤講師をやっているBとかなんとかというやつと組んで全日本教職員大会のダブルスで優勝したこともある。さらに、昨年のG県民体育大会のバドミントンの部ではAというT女子大学の優秀な助教授と組んでH市を優勝に導いてもいる。で、上記のリンク先にある写真はこの前途ある2人の新居なのである。
 私は自転車通勤の時にいつもこの家の前を通行するので、建築の進行状況をこうやってデジカメにとり、T女子大学の社会福祉コースで学んだ後、実家がある北関東でド田舎と近隣の県民に呼ばれているG県に戻り、社会福祉施設に精勤する教え子のYさんに送ってあげているというわけである。
 Yさん、招待状どうもありがとう。喜んで出席させてもらいます。4月12日を楽しみにしています。
 というわけで、披露宴では、やはり、北関東でド田舎と近隣の県民に呼ばれているG県に棲息するNとか、中国地方のOとかいう昔毛利元就が住んでいたという県に居住する柄の悪いFとか、O府に本社があるS電機という有名な会社のバドミントン部でがんばっているがまだ全日本チャンピオンになれないでいるSとか、その他懐かしい面々に会えることであろう。

  M君、Yさん、おめでとう。今年はG県の都市体育大会が8月にH市で開催されます。地元開催なので優勝目指してがんばりましょう。それでは、披露宴にはおいしいビール、お酒、ワイン、その他、たくさん用意しておいて下さい。たぶん柄の悪いFあたりがたくさん飲むのではないかと思われますので。それではまた。

 以上、一般には、意味不明の記述を失礼いたしました。しかしながら、ご関係の各位におかれましては、十二分に堪能いただけたものと確信いたしております。心からご関係各位のご多幸をお祈り申し上げます。m(__)m

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2月24日(月)飲酒練習

 
 大学2年生の時、所属していたバドミントン部にどうしても勝てない先輩がいた。今から考えると実力差はそれほどなかったんじゃないかと思う。なぜならば、部内外を問わずに、その先輩が負ける相手に私が勝つなんてこともしょっちゅうあったからである。でも、とにかくその人には勝てなかった。いいところまでいくんだけども負ける。例えば、15点のゲームで、10対2でリードしていても、終わってみれば15対10で負けているとか。あと1点で勝てる、つまりマッチポイントを握っていて逆転負けを食らうとか。とにかく勝てないのである。で、そのときの私の心理、つまり、10対2でリードしているときの心理であるが、「今日は先輩の調子が悪いのかな、それとも、今は手を抜いていて、あとで本気を出すのかな」などと考え、負ける場面をイメージしてしまうのである。マッチポイントを握っているときも、「ここで逆転されたらどうしよう、せっかくのチャンスがもったいない。こんなチャンスはもう2度とこないかもしれない」などと考え、かたまってしまうのである。

 今から考えると、とにかくネガティブなのである。そこで、あまりにも勝てなかったので、自分なりに、冷静に敗因を分析した。そして、結論を出した。自分の弱気のせいであると。ではどうしたらよいか。強気になればよいのである。ではどうしたら強気になれるか。・・・・・・・・・。考えが浮かばない。そこで、おもむろに冷蔵庫を開けた。そうしたら、キリンラガービールが1本入っていた。そこで、さっそく、キリンラガービールの栓をシュポと抜いてコップに注いだ。そしてそれを飲みながら思案を続けた。するとだんだんいい気分になってきた。気が大きくなってきた。そして、よいアイデアが浮かんだ。よしこれだと思った。人はアルコールが入れば気が大きくなる、ということは強気になれるということだ。じゃあ、アルコールを入れて試合に臨めばいいんだと。

 
 早速、翌日、このアイデアを実行に移した。まず、自転車で練習に向かう途中、自販機で350mlの缶ビールを購入し、キャリーバックに入れた。そして、練習に参加。素知らぬ顔でウオーミングアップを済ませる。そして、基本練習その他一式のことを終えた。そこでいよいよゲーム練習開始。運良くその日は例の先輩との対戦が組まれ、一人ほくそ笑む。で、その対戦の直前にトイレに駆け込む。もちろんキャリーバックの中に入れた缶ビールをタオルに包み小脇に抱えて。そして、トイレの中で缶ビールの栓を抜き、ぐいっと一気にそれを飲み干す。うまいっ。で、そしらぬ顔をしてコートへ。握手をするときに、「おまえ酒臭いな」「はい、きのう飲みすぎまして、どうも」。で、試合開始。ちょうどアルコールも回ってきていい気分。プレーも絶好調ですべてOK。あれよあれよというまに点を重ね、10対4でリード。と、ここまではよかった。ところがである、そのころから目が回りだし、頭がくらくらしてきた。そして、シャトルが2つ、3つ、4つにも見えてきた。心臓もばくばくしてきた。あとは推してしるべし。終わってみれば15対10での敗戦であった。ゲボッ。失礼。

 
 若気の至りである。今考えると空恐ろしい。あのときに運が悪かったならば、惜しい人材が失われていたかもしれない。これを読まれた大学生シャトラーの皆様。危険ですので、よい子は決してまねをしないでください。

 しかしながら、そんなことがあってから、その先輩に対する苦手意識はなくなった。なぜかはわからないが、勝てるようにはなった。
 気持ち、気持ち、気持ちの問題。
 
 飲んだらやるな、飲むならやろう、バドミントン。


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2月21日(金) 梅が見頃です

 
 本日、自転車通勤の途中寄り道し、梅林公園の梅を観賞しました。そこで、百聞は一見にしかずということで写真を撮ってきました。ご観賞、というほどのものではありませんが、どうぞ、ここをクリックしてください。

今度の土日あたりは大勢の鑑賞客でにぎわいそうです。豆腐田楽を食べながらビールを、こお、きゅ〜〜〜〜と、やりたいところですね。もし寒かった場合には、熱燗のコップ酒でも、きゅ〜〜〜〜と、やりたいところですね。ちなみに飲酒運転は厳禁です。公共交通機関をご利用下さい。

 東海女子大学の学生の皆さんには、勉強に疲れたら、部活動に疲れたら、そして、バイトに、恋に、その他何でもいいや、疲れている人は、梅林公園に足を運んで癒してみて下さい。場所は岐阜市梅林4、大学からだと、自転車で約10分、徒歩で約30分、ジョギングで15分、名鉄美濃町線梅林駅下車徒歩3分です。

梅林公園についての詳しい情報はこちらへどうぞ→http://www.gcci.or.jp/kankou/bairin/

 うめ〜は〜、さいいたか〜、さく〜ら〜は、まだかいな、ということで、ついちょっと前に、百々が峰山頂で初日の出を拝んだと思ったら、もうすぐ新学期。


 これからは、平成15年度モードに頭を切り換えて、こんなくだらないことばかりしていないで、来年度の授業の準備を始めよう、論文もちゃんと書きはじめることにしよう。

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2月20日(木) バックハンドストローク

 
 バドミントンの基本的な技術の一つにバックハンドストロークというものがある。右利きの人であったならば、主に自分の身体の左側に飛んできたシャトルを打ち返すときに使うストロークである。このときのバックハンドとは手の甲のことを意味し、したがって、手の甲をまず相手に向けてラケットを振り出す、と、ま、そんなようなストロークのことである。
 
 最近のジュニアの選手は何の苦もなく上手にこれが使える。さらに、ハイバックといって、頭よりも高い位置でバックハンドストロークを使ってシャトルをヒットする高等技術があるが、これなども朝飯前とばかりに使える選手も多い。で、ここで、最近のジュニアはといっているのは、最近じゃない、すなわち昔のジュニアにとってはこの技術を習得するのが難しかったということをいわんがためである。そう、ジュニアの時はこれが難しかった(私だけが思っているのかもしれないが)。特にハイバックなどを使えるジュニアはほとんどいなかったのではなかろうか。いや、むしろ、昔は、ジュニアはハイバックを使ってはいけないといわれていたほどである。しっかり回り込んでフォアハンドで打ちなさいと教えられていた。隠れて練習したりしているとしかられるということもあったんじゃなかろうか(私はしかられた覚えはないが)。なぜ、昔のジュニアにはこれが難しかったか、この答えは昔のラケットがとても重かったからである。今のラケットは90g位の重量だが、昔はそれが130gくらいあったのである。だから、力がないと振れなかったのである。
 
 さて、本題に入ろう。わたしは、大学3、4年生の時に、1学年下の後輩(仮にK君としておく)とダブルスのペアを組んでいた(とりあえず部内ではトップダブルスであったが)。このK君はサウスポーであったが、とてもバックハンドが下手であった。というよりは使えなかった。だから、本来バックハンドを使って打たなければならないようなところにきたシャトルに対してもフォアハンドストロークを使って打っていた。打ち方としては、ソフトテニスのボレーをイメージしてもらえばよかろう。


 ある試合のとき、K君がコートの右サイド、そして私が左サイドのサイドバイサイドフォーメーションをとっていた。そして、その状態でドライブ合戦となった。当然相手はK君のバックハンド狙う。K君がそれに対応するには、K君自身がコートの右側へ移動しなければならない。K君は1打ごとに少しずつ右側に移動してゆき、気がつけば片足がコートの外にでていた。相撲ならば寄り切りで負けである。しかし、それでも白熱したラリーは続いた。さらに相手が右側を狙ったとき、明らかにアウトとわかる球を打った。わたしは大声でアウトと叫んだ。K君はそれに反応し、身をよけた。それで、シャトルはコートの外遠くへ飛んでいく、はずであった。が、コツンという音がした。よく見るとシャトルはK君の頭に当たって、彼の足下に、落ちた。K君の両足が完全にコートの外にでていたのにも関わらずである。わたしは、バドミントンを30数年間やっているがこのような経験は、これ以前にも、これ以後にも、ない。


 その翌年、私とペアを組んだK君はインカレのダブルスで見事ベスト8に入賞した。この結果が、その後のK君の血のにじむような努力によるものなのか、あるいは、単にパートナーに恵まれただけのことなのかは、定かではない。

ね、常総学院高等学校バドミントン部監督の木内先生、また、昔話を肴に、一杯やりたいよネ。奥さんにもよろしく。


 努力に勝る天才はなし、これを今日の教訓としよう。

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2月18日(火) 「自分」という1人称表現

 
 英語での1人称表現(例えば「私は・・・・・です。」と表現しようとしたときに、私は、という言葉を表現する単語)は、I(アイ)以外に考えられない。しかしながら、日本語では、私(わたし)、私(わたくし)、私(あたし)、僕、俺、小生、儂(わし)、自分、うち、その他色々な表現が考えられる。私はこのなかで1人称表現として「自分」という言葉使うことについて、かねてより違和感を持っている。大学の運動部員の中には、男女を問わず、意識的か無意識的かはわからないが、この言葉を好んで使うものがいる。

 「自分は・・・・です。」と使う場合の「自分」という言葉は明らかに軍隊用語である。旧日本軍では一人称の使い方をそのように定め徹底していたようである。したがって、旧日本軍で自分のことを、私とか僕とかいおうものなら、上官に「貴様はまだ地方にいるつもりか」などと、厳しくとがめられたそうだ(ちなみに、旧日本軍では軍隊以外の場所のことを「地方」と呼んでいたそうである)。この表現のしかたは、どうも山口県地方の方言らしい。明治時代、西欧の列強に倣い、富国強兵の思想のもとに近代軍隊を組織していったが、その中心には長州藩出身者が多くを占め、したがって、この地方の方言が軍隊においてのスタンダードになったというわけである。そして、軍隊でのスタンダードが、先の戦時期に、体育系大学や右翼系大学の運動部に浸透していき、その後全国の大学運動部にひろがっていったものと考えられる。

 他人様が自分の1人称表現をどのように使おうとも、関与すべきことではない。しかしながら、ある表現に対して、世間には違和感・嫌悪感を示す人もいる、ということも事実である。その意味を知って使うならば問題ないと考えられるが、そうでないとしたら困ったことになる場合もある。まずは知ることが肝要かと思われる。自分が教える学生が、そのことによって不利益を被ることはさけなければならない。

むか〜し、20数年前に、私などが学生の頃にはこの表現を評して、礼儀正しくてなかなかよろしいとおっしゃる年輩の方もおられたが、就職活動などでは、もちろん使ってはならないと指導されていた。東海女子大学の就職部の先生のお考えはいかがであろうか。

 言葉というものはその意味をよく知って使った方が良さそうである。

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2月17日(月) 自転車走行中の迷惑

 
 今日、自転車で登校してきた。で、特に今日が特別というわけではないが、高校生の並列自転車走行にはいつも迷惑を被る。すなわち、歩道を走行中、正面から数台の自転車が横並びでこちらに向かってくる場合である。おおかたの場合は寸前のところで気がつき、一列縦隊となり横をすれ違うのであるがそうでない場合もある。おしゃべりや携帯電話に夢中で前を見ていない場合などは、こちらが自転車を降りて止まって待っているところに飛び込んでくることもある。右側がガードレールで左側が壁などといった場合にはよけるにもよけられず、大声を出して「とまれ」と叫ぶしか手だてがないといったこともある。「おまえら何を考えとるんじゃ」と叫びたくもなるが、そこは、良家に育った性なる故、「これからは気を付けなくてはいけないよ」などと優しく諭し過ぎ去るのである。


 が、しかし、今日はさすがにびっくりした。通勤中、上述のごとく前方に3台の並列走行中の自転車を発見した。制服を着た女子高校生3名、一人は赤髪でくわえたばこをふかしながら携帯の操作中、そして後の二人も茶髪厚化粧のコンビで携帯に夢中でこちらを見てはいない。思わず危険を感じて、「こら、危ないぞ」と、心ならずも叫んだ。そうしたところ、そのお嬢様たちが宣うた、「ぼけ、そっちの方が気をつけろよ」と。

いやいや、制服から〇〇高校の生徒であるとはわかったが。いやいや、親の顔が見てみたい、といったらその親御サンにはかわいそうであるかな。この不況の中、娘のために身を粉にして働いておられることだろうから(ま、必ずしもそうとは限らないが)。「このバカ娘ども、親の苦労を考えてまっとうに生きろ」といいたいところであるが、そこはそれ、良家に育った性なる故に、いえないところが残念ではある。

@  今日の経験、子供を持つ父親のひとりとして、忘れまじ。

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2月14日(金) サッカーとフットボール

 日本では11人対11人でボールを蹴り合いながらゴールを目指すゲームのことをサッカーと呼んでいる。しかしながら、この競技のことをそのように呼ぶ国は、世界的に見れば、日本、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアなどごく少数のようである。もっとも、イタリアではカルチョと呼ばれているが、世界的には、一般に、この競技のことをフットボールと呼んでいる。もちろん、これは略語で、正式にはアソシエーションフットボール(Association Football)である。

 さて、フットボールの歴史であるが、英国で古くからおこなわれていた、大人数が2つのチームに分かれてボールを奪い合う、あるいはゴールに運び合う、マスフットボールという遊技が進化したものと考えられている。これが19世紀に入り、とみに競技性を帯び、より高度化したローカルルールが作られていった。しかしながら、ローカルルールでは皆が一緒にプレーできないということで、ルールを統一するために、1863年に協会がつくられた。その協会がThe Football Associationで、そこで作られた統一ルールをもとにおこなわれる競技が、Association Football=Soccerということになったのである。なお、1863年に協会がつくられたとき、この協会に参加したクラブには大きく2つのグループがあった。それまでにそれぞれのクラブが決めていたルールの違いによる派閥である。1つの派閥はボールを手で持つことを禁止し、蹴ることを中心とするルールを支持するグループで、もう一方は、ボールを手でもって走ることを認めるルールを支持するグループであった。この協会では前者が多数派で、統一ルールもそうなった。そこで、少数派のクラブの人々はこの協会から離脱し、1871年にThe Rugby Football Unionという協会をつくって、新たなルールのもとに違うフットボールをおこなうようになったのである。これが、現在のRugby Football(ラグビーフットボール)と呼ばれる競技である。

さて、はじめに戻るが、このサッカー(Soccer)という言葉は造語で、19世紀の後半頃に英国のパブリックスクールの学生がつくったといわれている。すなわち、Rugby Footballをやる人のことをRugger(ラガー)と呼び、Association Footballをやる人のことをAssoccer(アソッカー)と呼んだのである。ラガーという言葉は今まで生き残り、アソッカーという言葉は使われなくなると同時に、soccer(ソッカー)という部分が独立し、いつしかアソシエーションフットボール自体を表す言葉となったわけである。

ちなみに、英国でサッカーとこの競技のことを呼ぶと、「ウー.アメリカン」とばかにされることがある。英国人は、この競技の名称はあくまでもフットボールで、その母国が英国であることに誇りを感じているようである。そして、これをサッカーと呼ぶアメリカ人は、フットボールを参考にしてつくったアメリカンフットボールのことをフットボールだと主張しているけしからんやつだと思っているようである。さらに、発音自体も、英国英語ではソッカーと発音するのに対し、米国英語のサッカーとはいかにも田舎臭いと思っているのかもしれない。日本ではサッカーという呼び名が一般的であるというと、日本はアメリカの植民地かと聞き返してくる失礼な英国紳士もいたりする。ちなみに、慶応大学にも1927年創部のいわゆるサッカー部があるが、正式名称は「体育会ソッカー部」である。また、早稲田大学にも1924年創部のいわゆるサッカー部があるが、正式名称は「体育局ア式蹴球部」である。

 ともあれ色々なスポーツのことについて知ることは楽しい。これからも勉強するようにしよう。

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2月12日(水) Baseballと野球
 2月10日(月)のカタカナ英語のところでも述べたが、英国や米国から入ってきたスポーツのルールにはカタカナ英語が多く使われている。名称そのものもカタカナ英語が多いが、その中にあって、野球は漢字表記でがんばっている。

野球は明治5,6年頃に日本に伝わったと考えられているが、その当時はカタカナ英語でベースボール、または、ベースと呼ばれていたようである。また、その他、文字通りに塁球、あるいはベースという言葉が三角形の底辺を表すことから、底球と呼ばれていたという記録もある。しかしながらそれらの訳語がベースボールをうまく表現していないということから、明治27年秋、第一高等学校ベースボール倶楽部に所属していた、マネージャーの中馬庚(ちゅうまん・かのえ)が、Ball in the field ― 野球という言葉を考え出したといわれている。広い所(野)でやる球技という発想であるが、これに他の選手たちも賛同し、翌28年2月に「一高野球部史」が刊行された。そしてこれにより「野球」という言葉が日本語として定着していったようである。ただし、中馬がこの語を考え出す以前にも、第一高等学校ベースボール倶楽部で中馬の三年先輩に当たる詩人の正岡子規が、自分の本名の升(のぼる)をもじって、野球(の・ぼうる)という雅号を使っていたらしい。したがって、中馬はそれを参考にした可能性もある。その後、一方の子規は、死球・四球・直球・飛球・打者・走者などの訳語を生み出していった。

ちなみに中馬は野球という言葉と同時にテニスの訳語についても考案している。野球と同じく、明治27年の秋に「庭球」という言葉を一高交友会雑誌に提案し、それにより、その後この言葉が定着したようである。野でやる球技が野球(ベースボール)で、庭でやる球技が庭球(テニス)というわけである。野球と庭球という言葉はセットで生まれたというところか。いずれにしてもおもしろいと同時に知恵を絞ったなという感じがする。以下にその他の競技についても、明治の人が、安易にカタカナ英語にせずに知恵を絞った結果を示す。ちなみに、排球(バレ−ボール)の排(はい)は排出の排で、外へ押し出す。すなわちオーバーハンドパスをイメージするとよかろう。


@明治の人に倣って、これからは色々なところで知恵を絞る習慣をつけよう。

Baseball

野球(ヤキュウ)

Football(Soccer)   

ア式蹴球(アシキシュウキュウ)

Rugby  

ラ式蹴球(ラシキシュウキュウ)

American Football  

米式蹴球(ベイシキシュウキュウ)

Basketball         

籠球(ロウキュウ)

Volleyball         

排球(ハイキュウ)

Tennis             

庭球(テイキュウ)

Badminton          

羽球(ウキュウ)

Table tennis 

卓球(タッキュウ)

Golf   

打球(ダキュウ),孔球(コウキュ)j

Hockey    

杖球(ジョウキュウ)

Handball     

送球(ソウキュウ)

Wight lifting

重量挙げ(ジュウリョウアゲ)

Boxing        

拳闘(ケントウ)

Boat

漕艇(ソウテイ)

Water Polo  

水球(スイキュウ)

Archery      

洋弓(ヨウキュウ)

Athletics    

陸上競技(リクジョウキョウギ)

Swimin

水上競技(スイジョウキョウギ)水泳


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2月10日(月) カタカナ英語

 パソコンをいじっていると、カタカナ英語の多さにびっくりさせられる。パソコン用語のほとんど全ては英語のよみをそのままカタカナにした言葉であるといっても間違いではあるまい。例えば、インターネット、メール、ログ、コンテンツ、エンコード、ウェブ、フォルダー、ファイル、ツール、その他多数、数え上げたらきりがない。
英国や米国生まれのスポーツのルールの場合も同様である。例えば英国生まれのバドミントンの場合、試合開始に際しては、「オンマイライト ]さん、A(チーム名)、オンマイレフト Yさん、B(チーム名)、Xさん トゥサーブ、ラブオール、プレー」。試合中でも、「サービス オーバー」、「セカンド サーバー」「フォルト」その他多数。試合終了に際しては、「マッチ ワンバイ[プレーヤー名(チーム名)] [スコア]」。延長戦に際しても、「アーユーセティング」と聞く。日本語はほとんどでてこない。また、単数形と複数形、時制等も忠実に英語に従わなければならない。例えば、1ゲームと2ゲームの間でエンドを替える、つまり、ネットを境にした場所を交代するときもチェンジエンズと複数形でコールしないと審判試験などの時には重大な間違いと指摘される。

上述に関連して、ローカルな試合では敗者審判という制度がある。これは試合に負けたものがそのコートの次の試合の審判をするというものである。ローカルな試合なので審判用語をよく知らない人も多く、このときにそのような人がその役につくと、ほとんどコールなしで試合を進行せざるを得ないといったこともおこる。審判用語が日本語でもっと簡単だったらなと思うことがしばしばである。あるローカルな試合にでたときに、やはり審判用語をよく知らないという方が敗者審判となった。一見して、ご年輩の初心者と思われる女性であった。そのとき、その方は試合開始にあたり、「審判用語を詳しく知らないので自分流でやらせてもらってよいですか?」と聞いてきた。「もちろんですよ」と対戦する両者は答えた。そうしたら「それではこれから試合を開始いたします。私の右側にいる方が蘭さんです。左側にいる方が**さんです。サーバーが蘭さんでレシーバーが**さんです。それではサーブを打って下さい。どうぞ。」とコールをした。私はうーんとうなった。これでいいじゃないかと思った。試合中も得点を伝えるときには「ゴ対サン」とか、「サーブを交代して下さい」とか、日本語で上手に進行して下さった。試合をやっていてとても気分が良かった。

英語を和訳するのはとても難しい作業で、今日のように洪水のごとく英語が日本に流れ込んでくる状況では、パソコン関連の現状も致し方ないかとも思う。しかしながら、スポーツの現場では、何とかならないものであろうか。いつでもどこでもだれでもがバドミントンを楽しむためには、一考の余地があるとは思いませんかね。ローカル大会用の審判用語、ちょっと頭をひねるだけで簡単に作れるような気もしますが。


これからはもっと日本語を大切にしよう
                                                                               
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2月7日(金) 自転車通通勤
 最近自転車通勤をしている。片道約20kmの道のりをマウンテンバイクを駆って所要約1時間。この年になると、この程度の運動ではあるが、健康のために非常によいと思われる。

なにしろ、自転車通勤をした日はお昼のお弁当が本当においしい。また、夕食が本当においしい。何を食べても本当においしく頂ける(と家人に言ったら、まずいものでも自転車がおいしくしてくれるという意味ですかと、つむじを曲げられてしまったが)。それから、ぐっすりと眠ることができる。夜、床についたらあっという間に朝がくる。そして、寝覚めが爽快である。健康のすばらしさを実感できる瞬間である。健康を支える3本柱は、栄養、運動、休養であるといわれているが、運動をすることによって栄養と休養も付随してくるのではなかろうか、とさえ思ったりもする。
 さらに、自転車通勤には家計を助ける作用がある。なにしろ、ガソリン代がかからない。1ヶ月あたり1万円は浮いていると思う。また、ウエストが締まり、10年前のスーツを着ることができるようになった。したがって、これから先、スーツを買う必要がなくなると思われ、家計に優しい。

自転車は排気ガスを出すこともなく、環境にも優しいと思われる。ただし、世の中、一方的に全てよいものなどなく、自転車にも欠点はある。ただ一つではあるが、自転車で帰宅するとビールが本当においしい。自宅まであと10分というところまでくると、決まって全力疾走をするからよくない。また、わざと坂がある路などを選んで駆け登るので本当によくない。ビール大瓶1本ぐらい、ほとんど一気飲み状態となる。また、その後、日本酒、焼酎、スコッチ、バーボン、トリス、ワイン、ブランデー、老酒、マオタイ酒、ウォッカ、ジン、テキーラ、泡盛、どぶろく、たまご酒等、何を飲んでも本当においしい。で、これは肝臓に優しくない。経済的にも、浮いたガソリン代がアルコールに変わっただけで、家計にも優しくない。


 健康と家計のために自転車の乗りすぎとお酒の飲み過ぎには注意をしよう。

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2月6日(木) 白羽の矢
 ある情報誌を読んでいた。そうしたところ、おもしろい文面を見つけた。それは、編集後記のところに書いてあったのだが、このような内容であった。「今月のインタビューは、これこれしかじかのご経歴をもたれる○○氏に白羽の矢を向けておこないました。さすがに教養あふれる○○氏、こちらの心も豊かになりました。

だけどもこの文は少しおかしい。何がおかしいかというと、白羽の矢は向けるものではなく、立てるものだからである。この言葉は、昔、神が人身御供(ひとみごくう)を求めるときに、これはと思う少女の家の屋根に白い矢羽を立てたという言い伝えから生まれた言葉で、多くの人の中から、犠牲になるものを選ぶというのがその本来の意味である。

いやいや、気を付けなければいけない。他人事ではない。どこで誰に自分が書いた文章を笑われているかわからないからである。しかしながら、白羽の矢を向けられた前出教養人の心境やいかに。お気の毒に。

 もって他山の石としよう。

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