競技歴

競技歴

ヒストリー


[ヒストリー]

 12歳(小学校6年生)の時に,福岡県福岡市にあった,草ヶ江バドミントンスポーツ少年団に入団し,バドミントンをはじめました。本当は,草ヶ江ラグビースポーツ少年団に入るつもりでいました。ところが,書類の提出ミスで,バドミントンの方にまわされてしまいました。書類を出し直すのも面倒だったので,スポーツができるのであればどちらでもよいと,バドミントンをはじめました。バドミントンをはじめて一番びっくりしたことは,ラケットをはじめとした用具がとても高価であったことです。当時(昭和40年代後半),選手用のラケットは,一番安いものでも3000円以上しました。当時の我が家にあっては,バドミントンのラケットといったら,2本組数百円のラケットのイメージしかなかったものですから,この額は非常に高価なものでした。母親も,「たかが,羽根突き遊びのバドミントンのラケットが,何で,そげん,たかかとね」と博多弁で言っていました。子供ながらに家計のことを考え,両親に申し訳ないな,と思いながら買ってもらいました。ラケットを買うときに母親が運動具屋までついてきて,「もっと,まけちゃらんね」と博多弁で値切り,3800円のものを手にしました。寝るときは枕元に置いて,大切に使った思い出が,母亡き後,今でも忘れられません。
 
 進学した福岡市立城西中学校にはバドミントン部がなかったのでバレー部に所属しました。3年生の時にはエースで,中体連の福岡市大会で3位に入賞し,県大会に進みました。TBSでニュースキャスターをしている松原耕二君はそのときのチームメイトです(ちなみに,松原君は生徒会長で,私は生徒会の清掃委員長でした,が,私の方は生徒会活動をさぼってばかりで,生徒会担当の先生の逆鱗に触れ,任期半ばにして首になってしまいました。松原君とはその後,学部は違いましたが,早稲田大学で一緒になりました)。中学時代には,バドミントンも個人的に続けました。草ヶ江スポーツ少年団や,社会人の福岡クラブ,福岡大学バドミントン部の練習に参加させてもらい,3年生の時には,福岡県代表として全国中学生バドミントン選手権に出場しました。
 
 進学した福岡県立城南高等学校にはバドミントン部があり,入学と同時に入部をいたしました。しかしながら,部員は,先輩,後輩共に,高校からバドミントンをはじめるものが大半でした。顧問の先生は,やさしくて,思いやりのある先生でした。しかしながら,残念なことに,バドミントンに関しては未経験の先生で,技術的な指導を受けることはできませんでした。ただし,試合の時には,遠く離れたところからいつも心配そうに,そして,心の底から応援していただいたことは何よりの励ましでした。試合に負けてうなだれているときにはいつも,「また今度があるよ」と背中越しに言葉をかけられたものでした。他方,練習環境は必ずしもよいとは言えず,たった,1面半のコートで,男女併せて30人以上が練習をしていました。さらに,進学校であったため,クラブ活動よりも,受験対策が優先されていました。したがって,通常の授業の後で半強制的な補習授業があり,それが終わるのが4:30頃でした。夏季の下校時刻は6:30,冬季は5:30と定められていましたので,いつも生徒指導のS先生の見回りに引っかかり,しかられてばかりでした。そこで,個人的に,福岡クラブや福岡大学で練習させてもらったりしていました。また,試合が近づくと,練習後,体育館の小さな窓の鍵を開けておき,翌朝,先生方が出勤されてくる前に体育館に忍び込み,練習をしたこともあります。そのようなことが実を結び,なんとか,インターハイのシングルスでベスト8に入ることができました。 
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 早稲田大学には,バドミントンがやりたくて入学しました。当時,早稲田大学にはスポーツ推薦入学制度がありませんでした。したがって,入学するためには,一般試験をくぐり抜けなければならず,結果として,高校時代にインターハイで上位入賞をした,いわゆるエリート選手はほとんどいないといった状態でした。しかし,効果的な練習によって競技力を高め,高校時代には無名であった選手が他大学のエリート選手と互角に戦っていました。選手をたたき上げる,実際に殴ることはありませんが,大学に入ってからの猛練習によって強くなっていくというのが当時の早稲田大学バドミントン部の魅力でした。そんな中,九州,福岡から,そのような組織的な練習を経験したことがない田舎者がバドミントン部の門をたたいたものだから大変でした。最初は,ウォーミングアップにもついていけない状態でした。最初に参加した練習で,先輩たちの後ろを何本も何本もダッシュをし,さすが早稲田のトレーニングはすごいなと思っていたところ,それがウォーミングアップと知らされ愕然としました。私にとってはつらい,本当につらい練習の日々が続きました,が,さすがに,受験勉強のブランクで,すっかりなまってしまっていたからだは,ついに,ねを上げ,救急車で運ばれてしまいました。と,同時に,半年間休部をすることになってしまいました。夏休み明け,正式に部に復帰し,今度は慎重にコンディションを整え,何とか練習についていけるようになりました。と,同時に,だんだん練習やトレーニングがおもしろくなり部の練習だけではもの足らなくなり,部の練習が終わった後も一人でトレーニングをするようになりました。人間のからだというものは不思議だなとつくづく思いました。ウォーミングアップにもついていけなかったからだがこんなにも変わるとは,人間の適応能力のすごさに感心しました。4年生の時に主将に選ばれました。この年は,早稲田大学創立100周年の年で,さらに,バドミントン部創部30周年の年でもあり,責任の重さを痛感しました。主将に就任するときのあいさつで,部員を前に,その年のスローガンとして,「創意・工夫・猛練習」を宣言したことは今でも覚えています。このスローガンのもと,多くの同輩,後輩の協力を得,充実した活動を行うことができました。この年,全日本学生選手権が東京都で開催されましたが,個人戦のシングルスの部で優勝をすることができました。「天の時」,「地の利」,「人の和」のおかげであると考えています。
 また,大学3,4年生の時には,2年間ほど,東京都杉並区にある「ひまわりバドミントンクラブ」のコーチを務めさせていただきました。これもとても良い思い出です。               

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 社会人になって1年目にアキレス腱を断裂してしまいました。バドミントン選手としてはもっとも脂がのってくるときだったので悔やんでも悔やみきれない思いがしています。さらに,術後の経過がよくなく2〜3年間アキレス腱痛に悩まされ,まともな練習ができませんでした。試合でも,頭ではわかっているのに,足が動いてくれず,シャトルの動きを読んでいるのにどうにもならないもどかしさに,ストレスばかりがたまっていきました。しかし,アキレス腱を切ってから3年をすぎた頃から,不思議とアキレス腱痛がなくなり,思い通りの練習ができるようになりました。岐阜の社会人のクラブを渡り歩いたり,仲間と,愛知県にある実業団チームを訪れ,練習したりという日々が続きました。そのような延長で,沖縄国体成年の部で優勝ができました。
 
 平成元年10月〜平成2年10月にかけて1年間,(財)日本オリンピック委員会のスポーツ指導者在外研修員として,英国に駐在し,ヨーロッパのバドミントンについて研究をしました。そのときに,大英博物館の中にある,大英図書館にも足繁く通い,バドミントンの歴史についても研究をしました。読書に疲れた時は,博物館の中をぶらぶら歩きながら,エジプトのミイラやマグナカルタの実物や,その他,世界の秘宝を見て回りました(なんと贅沢なことか)。大英図書館の閲覧室にはマルクスが資本論を書き上げたといわれている席があり,そこに座って資料を読んでいると,本当に,歴史の重みを感じました(とは言っても,日本にいても同様の思いをする所はたくさんありますが)。
 
 平成3年4月〜平成13年3月まで東海女子大学バドミントン部の監督兼顧問をつとめました。
 平成13年4月〜平成19年3月まで東海女子大学バドミントン部の顧問をつとめました。
 平成25年4月〜平成28年3月まで東海学院大学バドミントン部の部長兼監督をつとめました。
 平成14年4月〜平成28年3月まで岐阜県羽島市を中心に羽島クラブ監督、羽島中学外部コーチ、長良高校外部コーチなどをつとめ小、中、高校生にバドミントン指導を行いました。

 インカレの団体戦で2連覇できたことや国際大会で活躍できる選手と共にバドミントンができたことはとてもよい思い出です。
 同時に、大学生だけではなく、小学生、中学生、高校生のバドミントン指導ができたこともよい思い出です。
 東海女子大学は平成19年4月に校名変更され、東海学院大学となりました。

 平成28年4月〜生まれ故郷の福岡に戻り、日本経済大学福岡キャンパスの教授を務めながら、バドミントン部の創設に携わりました。
 平成29年4月〜令和5年7月までバドミントン部長兼監督を務めました。

[選手としての主な競技歴]

(小学生時代)
 福岡市民バドミントン秋季大会 男子小学6年生 シングルスの部 優勝
   (昭和47年10月 於 福岡県福岡市)

(中学生時代)
 全国中学生バドミントン大会 都道府県別対抗戦の部 福岡県代表として出場
   (昭和50年8月 於 東京都大田区)

(高校生時代)
 全国高等学校総合体育大会 バドミントン競技 男子シングルスの部 ベスト8
   (昭和53年8月 於 福島県会津若松市)

(大学生時代)
 全日本学生バドミントン選手権  シングルス 優勝
   (昭和57年10月 於 東京都渋谷区)
 全日本学生バドミントン東西対抗競技会 最優秀選手賞
   (昭和57年11月 於 岡山県岡山市)

(社会人時代)
 国民体育大会バドミントン競技   成年の部 優勝
   (昭和62年10月 於 沖縄県糸満市)
 U. S. Open Badminton Championships ダブルス 第3位
   (昭和62年11月 於 米国Los Angels市)

[監督としての主な競技歴]

 全日本学生バドミントン選手権   団体戦の部 優勝(東海女子大学)
   (平成4年10月 於 愛知県名古屋市)

 全日本学生バドミントン選手権   団体戦の部 優勝(東海女子大学)
   (平成3年10月 於 北海道札幌市)
 
 西日本学生バドミントン選手権    団体戦の部 優勝(東海女子大学)
   (平成10年8月 於 岡山県岡山市)  

 西日本学生バドミントン選手権    団体戦の部 優勝(東海女子大学)
   (平成9年8月 於 愛知県名古屋市)

 西日本学生バドミントン選手権    団体戦の部 優勝(東海女子大学)
   (平成8年8月 於 京都府京都市)
 
 西日本学生バドミントン選手権    団体戦の部 優勝(東海女子大学)
   (平成6年8月 於 岡山県岡山市)
 
 西日本学生バドミントン選手権   団体戦の部   優勝(東海女子大学)
   (平成5年8月 於 愛知県名古屋市) 

 中部大学バドミントン選手権   団体戦の部 10連覇(東海女子大学)
   (平成3年6月〜平成13年6月)

 東海学生バドミントン春・秋季リーグ戦 1部リーグ 20連覇(東海女子大学)
   (平成3年4月〜平成12年11月)

[監督として指導をした主な部員とその主たる成績]

 宮村愛子 (1996年アトランタオリンピックバドミントン競技出場)(卒業後)

 井田貴子 (2000年シドニーオリンピックバドミントン競技出場) (卒業後)

 渡辺真由美(1992年アイルランドオープンバドミントン選手権 シングルス3位)

 高野八重 (1993年世界学生バドミントン選手権 シングルス優勝)

 伊藤真弓 (1994年全日本学生バドミントン選手権 シングルスベスト8)

 堀裕子 (1994年全日本学生バドミントン選手権 シングルスベスト8)

 坂本諭美 (1994年全日本学生バドミントン選手権 ダブルスベスト8)

 岩本舞 (1994年全日本学生バドミントン選手権 ダブルスベスト8)

 寺本知代 (1996年全日本学生バドミントン選手権 シングルスベスト8)

 関本祥子 (1997年全日本学生バドミントン選手権 シングルス3位)

 湯田絵里子(1997年全日本学生バドミントン選手権 シングルスベスト8)

 高島香里 (1997年全日本学生バドミントン選手権 ダブルスベスト8)
 
 松本里衣 (1998年全日本学生バドミントン選手権 シングルスベスト8)

 高尾昌代 (1998年全日本学生バドミントン選手権 ダブルス3位)

[海外コーチ研修歴]

1.(財)日本オリンピック委員会スポーツ指導者在外研修員(平成元年10月〜平成2年9月)

(概要)
 平成元年度の日本オリンピック委員会スポーツ指導者在外研修員に日本バドミントン協会の推薦により選ばれ以下の活動を行った。
 平成元年10月より1年間,バドミントン競技の発祥の地である英国のロンドンを拠点にし,バドミントンのコーチ学の研究を行った。具体的には,The Badminton Association of England L.T.D.(英国バドミントン協会事務局)および The Wimbledon Squash & Badminton Club(ウインブルドンスカッシュアンドバドミントンクラブ)に所属しながら,Ciro Ciniglio氏(当時イングランドナショナルチーム監督)の指導のもと,主に,ヨーロッパバドミントン界の現状(トップランキング選手からジュニア選手に至る幅広い選手層の練習環境,生活環境,練習方法,トレーニング方法等)について調査,研究を行った。 

[全日本女子バドミントンチーム役員歴]

全日本女子バドミントンチーム 強化合宿および日本代表選手選考会役員(コーチ)
                 (平成6年4月〜平成8年3月)


以上

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