1月8日(木) 1874年のバドミントンのプレー風景

 下の絵は,1874年4月25日にロンドンで発行された「The Graphic」誌に掲載されたバドミントンのプレー風景である。本サイトの「蘭和真所蔵バドミントンアンティーク」の中でも紹介しているが,ロンドンのアンティークマーケットで購入したものである。絵のタイトルには「THE NEW GAME OF BADMINTON IN INDIA」と記されている。この頃,バドミントンがニューゲームとしてインドで盛んにプレーされるようになり,それがイギリス本国に紹介されたものだと思われる。まさにこの頃,バドミントンがイギリスという国において,娯楽のためのゲームとして確固たる地位を築いたことを証明する絵であろう。


 
 さて,この絵が掲載された,The Graphic(ジ・グラフィック:イギリス人はこう発音する ”ザ” ではなく ”ジ” と)という雑誌を調べてみると,やはり同じ号に当時のゲームの様子が詳しく記されている。これについては拙稿(バドミントンの初期のルールに関する研究−1893年のバドミント協会設立以前に考案されたルールの研究−,東海女子大学紀要,第15号:p15−36 ,1997年)でも紹介したが,折角なので,以下にその概要を示す。

 このジ・グラフィックの記事では「THE GAME OF BADMINTON IN INDIA」という見出しで,バドミントンのことを紹介している。それによると,当時のインドでは,バドミントンがクロッケーに代わり盛んに行われるようになってきたとある。また,どこへ行ってもバドミントンのトーナメントや対抗戦のことばかり耳にするとある。さらに,老いも若きもみんなが等しく熱心にこの娯楽に加わっているとある。今からちょうど130年前,インドにおいて,イギリス人が盛んにバドミントンを行っていた様子を伺い知ることができる。一方,そのころの日本はというと,明治7年,板垣退助らが愛国公党を結成し,明治政府に対し国会を開けと民選議院設立建白書を出した年である。ちなみに,あの西郷隆盛らによる西南戦争は1877年である。

 さて,この雑誌に掲載されたルールの概要を以下に示す。

 2つのグループそれぞれに地域が割り当てられる。
 それぞれの地域はライトコートとレフトコートに分けられる。
 サービスラインと呼ばれる境界線によって境界をはっきりさせる。
 2本のサービスラインの中間に2本の支柱を立て、その間に幅約18インチのネットか布きれを地面から5フィートかそれ以上のところに張る。
 コートの寸法は様々でプレーヤーの数によって決められる。

 バトルドーとシャトルコックが一般に使われるが、風の強い日にはラケットと羊毛製のボールが使われる。

 2人でも4人でも6人でも8人でもプレーすることができる。

 ショートゲームは15点、ロングゲームは21点まで行う。

 どちらのサイドがファーストハンドつまり開始するかが決まったら、ライトコートにいるプレーヤーがサービスラインの後方からネット越しに相手ライトコートにサーブする。
 もし、シャトルコックがレフトコートやネットの手前に落ちたり、ネットに当たったり支柱の外側つまり境界の外側を通った場合にはそのプレーヤーはアウトである。
 しかし、シャトルコックが相手ライトコートに落ちていった場合には相手はそれを取らなければならない。
 もし相手がそれを正しくネット越しに返すことができなかった場合はサーバーサイドが1点を得て、サーバーは場所をパートナーと替り、レフトコートから相手レフトコートヘサーブをする。
 しかし、もし相手がサービスを正しく返球し、それをサービスサイドが返球し損なった場合にはサーバーはアウトになる。しかしそれを再び返球し、相手がそれを返球し損なったらサービスサイドに1点が与えられる。



 絵を見ると,コートの向こうの方で,インド人の召使いがご婦人方にお茶を給仕している様子がわかる。
 ただし,この絵,本当にインドでのバドミントンの風景だろうか。かなり疑問である。なぜならば,プレーヤーの服装に注目するとよい。熱いインドで,わざわざこの様な服装でバドミントンをやっていただろうか。
 この絵のプレーヤーの服装,何でこの様になってるのだろうか。イラストレーターが,誰かに話を聞いて,想像で描いたのだろうか。それとも,意図的にこの様な服装にしたのだろうか。それとも,本当にこの様な服装で,椰子の木の横で,汗びっしょりになりながらやっていたのだろうか。

 ともあれ,1874年に,この様なちゃんとしたコートやルールを用いてバドミントンが行われていたことだけは確かである。

 ということで今日はおしまいです。さようなら。


トップページへ